JR花園の駅を北側に出て、新丸太町通を西に200mほど歩くと、法金剛院がある。
承和年間(834~847年)右大臣清原夏野が双ヶ岡の東にに双ヶ岡山荘を営んだところで、のち大治5年(1130)鳥羽上皇の中宮待賢門院の御願寺として法金剛院が建立された。
その後、荒廃したが鎌倉時代円覚上人が再興した。
本堂には定朝の作風を伝える平安後期の本尊阿弥陀如来坐像(重文)、鎌倉時代の厨子入十一面観音坐像(重文)などの重要文化財がある。
出典:【最新旅行案内京都 法金剛院】より
法金剛院は、鳥羽天皇の中宮である藤原璋子(待賢門院)が再興した寺院であり、ここで晩年を過ごしている。
待賢門院は絶世の美女だったようで、白河天皇の養女となって鳥羽天皇に嫁ぐも、白河上皇がその美貌に溺れ、崇徳天皇を生ますことになり、それが白河上皇なきあとの四男の後白河天皇との間に起こる「保元の乱」の引き金になろうとは思いもよらなかったことであろう。
また、その美貌ゆえに、法金剛院には数多の人が訪れたといい、そのなかに西行もいたという。
「なんとなく 芹と聞くこそ あわれなれ 摘みけん人の 心知られて」
「紅葉みて 君が快や しぐるらむ 昔の秋の 色をしたひて」
と西行が詠んだ歌が残っている。
(芹摘む人とは、高貴な女性へのかなわぬ恋を意味するという)
寺院の駒札によると、
『五位山と号する、京都では数少ない律宗寺院である。
極楽浄土に見立てた浄土式庭園は有名で、平安末期の姿をとどめている。花の寺としても知られ、とりわけ蓮の名所として名高い。
平安時代の初め、右大臣清原夏野(きよはらのなつの)がこの地で営んだ山荘を、没後、寺に改め、双丘寺と称したのが当寺の起りで、大治5年(1130)鳥羽上皇の中宮待賢門院が再興し、寺名を法金剛院と改めた。
四季折々の美しい景観は、待賢門院を深く慕ったといわれる西行の歌にも詠まれている。その後、弘安2年(1279)に円覚により再興され、律宗に改められた。
本堂は、元和4年(1618)に再建されたもので、堂内には、本尊の阿弥陀如来坐像、四本の手を持つ珍しい十一面観音坐像、僧形文殊坐像などを安置している。また、寺宝として、蓮華式香炉などの工芸品、書画など多数蔵している。
庭園は、昭和45年(1970)に発掘、復原されたもので、池の北側にある巨石を並べて造られた「青女(せいじょ)の滝」は、五位山と呼ばれる背後の山とともに、国の特別名勝に指定されている。』
出典:【法金剛院の駒札】より
法金剛院の庭園は、待賢門院が極楽浄土の姿を思い作庭させた、池泉回遊式浄土庭園で、その中に大池を造り「青女の滝」はそこに鑓水をする滝として作られたものである。
滝は石立の僧林賢により巨岩を用い7尺(2m)の石組みの滝が作られ、人工のものと思えないほどの出来栄えだったと絶賛されるが、待賢門院は3年後の長承2年(1132)仁和寺の僧静意(じょうい)に命じ、さらに高く(6尺:5m)積み上げさせたのである。
しかし天災・戦禍により盛衰を繰り返し、大池や青女の滝も埋まってしまうのである。
時は流れ、昭和43年(1968)に発掘調査が行われ、上部のみ見えていた滝が完全な姿で残っていたこと判明し、昭和45年(1971)に滝が復元され。庭園の整備とともに平安時代の雰囲気が再現されている。
また青女の滝の発願者と作者が明確で、遺構が残っているのは貴重であり、背後の山・五位山とともに、特別名勝に指定されている。
法金剛院(京都市右京区花園扇野町49 )
京都駅から
▼JR山陰線(嵯峨野線)で『花園』下車(所要12分)
「花園」から、丸太町通を西に徒歩5分
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