京都御苑の東、清和院御門から寺町通を北に3分ほど歩くと「廬山寺」がある。
豊臣秀吉が寺町に寺を集め寺町通を通して以来、この「廬山寺」と「清浄華院」そして「本禅寺」の三寺は変わっていないのである。
また、廬山寺は紫式部邸があった所で、ここで「源氏物語」が書かれたという。

01蘆山寺mid
紫式部は、平安時代の女人で、言わずと知れた源氏物語の作者である。
藤原家の人で、紫は源氏物語の「紫の上」から、式部は父の役職である「式部大丞」から取ったものであり、今でいうペンネームで、本名は不明である。
生没年も不明で、源氏物語が何才の時に書かれたものかも、よく判っていないのである。
推測では、天延元年(979)頃に生まれ、娘の頃に、父の赴任先の越前国で2年程過ごし、長保元年(999)に一女(藤原賢子)を設けている。
その後、一条天皇の中宮、彰子に仕え長和5年(1016)に歿したとされていて、その墓所と伝えられるのが、北区紫野西御所田町に残っている。

02境内(1)mid
『廬山寺は、初めは船岡山にあり、廬山天台講寺と呼ばれたが、のち廬山寺と改称された。後醍醐天皇の帰依あつく、荘園も寄付されたが、応仁の乱後しだいに衰え、天正(1573~92年)のころ今の所に移った。
寺宝の如意輪観音半跏像は、かつっての四天王寺の救世(くぜ)観音の模造といい、いわゆる半跏思惟(はんかしい)の相を示している。
飛鳥時代や奈良時代前期に多いのであるが、これは鎌倉時代に模造されたものといわれる。
(半跏は片足を組んで座る姿で、思惟は右手を頬につけて考える姿をいい、半跏思惟とはそれが組み合わさった姿をいう)
毎年2月3日の節分会に行われる追儺(ついな)式は「鬼の法薬」と呼ばれ、赤・黒・青の三人の鬼が槌・斧・炬火(きょか:たいまつの火)をもって現われ、太鼓と法螺に合わせて本尊前で踊り廻る、珍しく面白い行事である。
これは村上天皇の御代に開山元三大師が宮中において、300日間、護摩を修した時に出現した悪鬼を、三鈷・独鈷をもって除いた故事にならったものといわれている。』
                       出典:【最新旅行案内「京都」】より

03境内(2)mid
駒札によると、
『日本廬山と号する圓浄宗の大本山で、正しくは廬山天台講寺という。
天慶元年(938)、慈恵大師良源(元三(がんさん)大師)が船岡山南麓に開いた與願(よがん)金剛院に始まる。寛元3年(1245)、法然上人に帰依した住心房覚瑜(じゅうしんぼうかくゆ)が出雲路に廬山寺を開き、この二カ寺を兼務した廬山寺第三世明導照源上人(1339~1368)によって廬山寺を與願金剛院に統合し、円、浄土、戒、密の四宗兼学寺院となった。
その後、応仁の兵火に遭い、天正元年(1573)、当地に移った。現在の堂宇は、1788年の「天明の大火」による炎山以後のものである。
当地は紫式部の邸宅跡で源氏物語執筆の地と伝えられ、本堂前の「源氏の庭」には「紫式部邸宅址」の石碑が立っている。
本堂には、恵心僧都の作と伝えられる阿弥陀三尊等が安置されている。
国宝の慈恵大師自筆遺告状、また、重要文化財として、鎌倉時代の如意輪観音半跏像、後伏見天皇及び正親町(おおぎまち)天皇の宸翰(しんかん)、法然上人選択集などを蔵し、境内には、光格天皇父の閑院宮典仁(すけひと)親王(慶光天皇)陵などがある。
良源が修行の邪魔をする悪鬼を退散させたという故事に由来する2月3日の節分会は「鬼の法楽」の名で知られ、悪疫退散を祈願する行事が行われる。』
                           出典:【廬山寺の駒札】より

04紫式部邸跡mid
廬山寺はまた、紫式部邸跡だと推定され、ここで「源氏物語」や「紫式部日記」が書かれたという。
説明板には、
『現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、正しくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良原(元三大師)が船岡山南麓に開いた與願金剛院に始まる。
寛元3年(1245)、法然上人に帰依した住心覚瑜(じゅうしんかくゆ)上人が出雲路に廬山寺を開き、この二カ寺を兼務した明導照源上人(1339~1368)によって、廬山寺を與願金剛院に統合し、寺名を「廬山天台講寺」とした。
四辻善成の「河海抄(かかいしょう)」に、紫式部邸の位置が「正親町(おおぎまち)以南、京極西頬(つら)、今東北院向也」とあることから、この地を紫式部邸宅跡と推定している。
また、曽祖父の堤中納言こと藤原兼輔の屋敷があった地で、式部の父の藤原為時に譲ったことから、ここで「源氏物語」や「紫式部日記」が執筆されたという説があり、平安時代の貴族邸を模した庭には紫式部邸宅跡の顕彰碑が立つ。』
                    出典:【源氏物語ゆかりの地 廬山寺】より

05歌碑mid
また、その横には紫式部と大貮三位(だいにのさんみ)母子の歌碑が立つ。
大貮三位は、「有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」と詠み、
紫式部は、「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」と詠んでいる。
説明板には、
『大貮三位「作者は名を賢子(かたこ)と言い、父は右衛門権佐・藤原宣孝、母は紫式部。長保2年(1000年)に出生、永保2年(1082年)に薨じた。親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母となり、従三位典侍(ないしのすけ)に昇進した。三位であると共に大宰大貮・高階成章と結婚したため、宮廷では大貮三位と呼ばれた。
歌人としては母親に匹敵するほどの才媛で、歌集「大貮三位集」を遺した。極めて聡明で人徳があり、乳母典侍として、後冷泉朝の宮廷文化の昂揚に大きく寄與した。」
紫式部「紫式部は、越後守・藤原為時の娘で、名は香子(たかこ)と言ったらしい。生年は天延元年(973年)頃、没年は長元4年(1031年)頃と推定される。夫・藤原宣孝の卒後、中宮・藤原彰子に仕えた。
中古三十六歌仙のひとりとされ、大作「源氏物語」のほか「紫式部日記」「紫式部集」といった作品がある。その文名は遍く知られており、ユネスコによって、「世界の偉人」のひとりに選定されている。」』
                   出典:【紫式部・大貮三位歌碑の説明板】より

蘆山寺(京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町397 )
京都駅から
▼「A2」乗り場から4・17・205系統で『府立医大病院前』下車(所要21~23分)
「府立医大病院前」から、徒歩5分