円山公園を東に抜け、平安神宮へと続く神宮道に面して建つのが「知恩院の三門」である。
東山三十六峰の一つ華頂山の西麓にある知恩院は、法然上人が浄土宗の布教を始めた所で、また上人が入滅した所でもあり、その法然上人が、平安末期の承安5年(1175)に悟りを得て、良い水の出るところから吉水と呼ばれた京都東山の麓(東山吉水:現在の知恩院勢至堂のあたり)に庵を結んで布教を始めたのが「知恩院」の始まりとされる。
そこで布教活動を始めるのだが、その教えが「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」(月の光が届かない里はないのだが、月の光はそれを眺める人の心のなかに住んでいる)と、「専修念仏」に徹し、どんな者でも一心に「南無阿弥陀仏」を唱えれば、極楽往生出来るというものであり、当時は苦しい修行を積み重ねた者だけが、極楽往生出来るとされており、法然の教えは旧宗派によって激しく非難され迫害を受けたのである。
そのこともあり、法然の弟子、住蓮と安楽が鹿ケ谷で開いた念仏会に参加した、後鳥羽上皇に仕える松虫と鈴虫の姉妹が、後鳥羽上皇の留守に落飾し出家をしてしまうのである。これにより住蓮と安楽は唆したと罪を問われ処刑となり、建永2年(1207)に法然も讃岐国に流されるのである。
この時に、後に浄土真宗の開祖となる弟子の親鸞も越後に流されている。
4年後の建暦元年(1211)に赦され京に戻るのだが、翌年の建暦2年(1212)、80才で入寂をする。
その教えは弟子に受け継がれ、文暦元年(1234)に弟子の源智上人が堂宇を整え、寺号も「華頂山知恩教院大谷寺」として再興し、発展をとげるのである。
その後、応仁の乱での焼失や再興を繰り返し、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの庇護を受け寺勢は発展するのである。
現在の堂宇の多くは江戸時代に入り、徳川家康が再建を進め、寛永10年(1633)徳川3代将軍家光の寄進なるものである。
家光寄進の建物としては、三門・御影堂・集会堂・経堂・阿弥陀堂・唐門・大方丈・小方丈・鐘楼などがある。
知恩院の入口に建つ三門は、五間三戸(正面柱間が5つで、うち中央3間が通路になっている)の楼門で、元和7年(1621)に、徳川2代将軍・秀忠の命により建立されたもので、日本の三門のながで最も大きく、入母屋造本瓦葺の高さ24m、幅50m、屋根の瓦は7万枚といい、門に掛かる「華頂山」の扁額は畳2畳の大きさがある。
三門を入り正面の急な石段を登り、御影堂へと向かう道を「男坂」といい、その横のなだらかな坂から向かう道を「女坂」と言う。
三門をくぐり急な石段の男坂を登ると、左側に見えるのが知恩院の本堂で、法然上人の木像を安置することから「御影堂」とも呼ばれる。
御影堂は知恩院でも最大の建物で、「大殿(だいでん)」と呼ばれることもある。寛永16年(1639)徳川家光により建立された、入母屋造本瓦葺きで、間口45m、奥行35mの荘重で江戸時代初期の仏寺建築の代表的な建物である。
柱間は11間あり、外陣と内陣とに分かれ、内陣の中央には円光大師(法然上人)の座像(高さ63cm)を安置している。
また堂正面右の軒裏には、左甚五郎の「忘れ傘」があり、これは完璧に完成してものは、とかく何か起こるので、甚五郎がわざと残したものだと言われている。
同じ理由から、大棟の屋根の瓦が2枚残され未完となっているのも、このことからだと言う。
また本堂(御影堂)から集会堂・方丈に至る900mの廊下は、歩くと鶯が鳴くような音を出すという、鶯張りの廊下である。
御影堂の横を通り「円光大師本廟路」の石碑が建つ石段を登り「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の建つ門をくぐると、さらに石段があり高みへと登ってゆく。
その石段を登りつめると、円光大師(法然上人)の遺骨を安置する廟堂がある。法然の亡き後、門弟たちのより建てられたもので、知恩院では最も高い所に位置している。
駒札には、
『法然上人の御遺骨をお祀りする霊廟。現在の御廟堂は慶長18年(1613)常陸国 土浦城主 松平伊豆守信一公の寄進により再建されたもので、正面に玉垣をめぐらした唐門を構える。
さらに宝永7年(1710)参拝のための拝殿が建て添えられた。
知恩院で最も重要な根本聖地である。』
出典:【御廟の駒札】より
御廟の一段下には、法然上人終焉の大谷庵室の跡に建てられた「勢至堂」がある。
説明板によれば、
『元祖法然上人終焉の地、大谷浄室の旧扯で、本地堂知恩教院とも呼ぶ。桁行21メートル、梁行20メートルの、七間四面単層入母屋造本瓦葺、享禄3年(1530)の再建になり現在の知恩院では最古の建築物で、明治32年国宝建造物に指定された。
外陣正面に掲げられている勅願「知恩教院」は後奈良天皇の親翰である。』
参照:【勢至堂の説明板】より
とあり、この地は法然上人が亡くなるまで念仏を唱えた大谷禅房があった所で、知恩院発祥の地でもある。
室町時代後期の享禄3年(1530)に建てられ、本堂として法然上人の尊像(御影)が祀られたが、後に御影堂が建てられ尊像が移された為に、勢至菩薩像を本尊として祀ったことから「勢至堂(せいしどう)」と呼ばれるようになった。
知恩院(京都市東山区林下町400 )
京都駅から
▼「D2」乗り場から206系統で『知恩院前』下車(所要23分)
「知恩院前」から、徒歩5分
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