四条通は、京都の市街を東西に走る通りで、東の突当たりが、祇園にある「八坂神社」で、西の突当たりが、嵐山にある「松尾大社」である。
四条通も松尾橋を越え、阪急嵐山線の松尾の踏切を渡ると、嵯峨街道にあたり、その角に平安神宮の大鳥居に次ぐ、高さ14mの松尾大社の大鳥居が見える。
その大鳥居を潜り参道を数十m行くと二の鳥居となる。二の鳥居の奥に、左右に随神を配した「楼門」があり、これを入ると「松尾大社」である。
松尾大社は、大宝元年(701)、秦都理(はたのとり)が秦氏の氏神として神殿を建立したのが始まりといわれ、その一族が長く社家を務めた。
天平2年(730)に大社の称号を得、平安時代は王城鎮護の社として、東の賀茂、西の松尾と並び称され、中世以降は造酒神として信仰を集めている。
境内に湧く「亀の井」の水を加えると酒が腐らないと言われ、室町時代から酒造家の信仰が厚く、境内には全国から菰樽が奉納されている。
楼門を潜ると拝殿と本殿である。
本殿は、「松尾造」と呼ばれる両流造の屋根を持つ珍しいもので、この建て方は福岡の宗像大社と安芸の厳島神社、そして松尾大社の三社のみで応永11年(1397)の創建になる。
松尾大社の由縁を駒札にみると、
『大山咋神(おおやまぐいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の二神を祀る。
大宝元年(701)秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、松尾山大杉谷の磐座(いわくら)の神霊を勧請し、秦氏の氏神として、当地に社殿を建立したのが起りと伝えられる。
平安遷都後は王城鎮護の神として、また中世以降は醸造の神として人々の信仰を集めている。
本殿(重要文化財)は、「松尾造(両流造)」と呼ばれる珍しい建築で、天文11年(1542)に改築されたものである。宝物館には、等身大の男神坐像二体、女神坐像一体(ともに重要文化財)が安置されている。
また境内の霊泉「亀の井」の水を醸造のときに混ぜると酒が腐らないと伝えられる。
毎年4月に行われる松尾祭には、境内に山吹が咲き乱れ、桂川で神輿の船渡御が行われる。
また7月には御田祭(市無形文化財)が行われるなど、多くの人々でにぎわう。』
また7月には御田祭(市無形文化財)が行われるなど、多くの人々でにぎわう。』
出典:【松尾大社の駒札】より
松尾大社は酒造りの神として崇められているのだが、その境内に「亀の井」という名水が湧く。
本殿の横を奥に入ると、松風苑三庭の庭に続く道のそばに、「亀の井」がある。
松尾大社はもともと、社殿の背後の松尾山に神々が降臨したとされ、その後は今も、巨大な岩石があり、古くは、日崎の峯とか鎮座場と称されて崇められていた場所であった。
元正天皇の和銅7年に、「首に三星をいただき、背に七星を負い、前足に離の卦を顕わし、後足に一支あり尾に緑毛・金色毛の雑った長さ八寸の亀」が現れ、護国鎮護を願い、それ以来、松尾大社は亀がご神縁を導くとされた。
また、亀と甕の語感から、酒造りの甕に合わせて酒造りの神として崇められるようになったという、本当のような嘘の話である。
この「亀の井」の水を、醸造の酒に加えると、酒が腐らないと云われる。松尾山の磐室から流れ出る神水で、全国の酒造りの所からこの水を汲みにくることはないのだが、
宮尾登美子さんの「蔵」とい小説に、目の見えなくなった娘の、烈と中風を患った父親とが、この松尾大社に詣で、この亀井の水を小さな徳利に入れて帰るという件(くだり)があるのだが、それ以外にも延命長寿の水としても近隣の人達が汲んでいくのである。
荘厳な本殿の横から、その裏に回ると、景色が一変をし、御手洗川が流れるひんやりとした風が聞こえてくる。その先にあるのが「霊亀の滝」であり、松尾山の頂きから流れる霊水が、この滝を落ち、松尾の神社まで神水を運ぶのである。
松尾のお山は「別雷山(わけいかづちのやま)」と呼ばれ、七つの谷に分かれており、この滝の水量は少ないのだが、枯れることはなく松尾のお山から流れてくるのである。
そして、この滝そのものが神霊とされ「滝御前」の扁額が掛かる鳥居があり、ここを潜ると何故か、ひんやりとした空気が感じられ、松尾のお山が神の山として崇められていたということを実感するのである。
松尾大社(京都市西京区嵐山宮町3)
京都駅から
▼「C6」乗り場から28系統で『松尾大社前』下車(所要40分)
「松尾大社前」から、徒歩3分
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