京都御苑西側の烏丸通りに面する蛤御門前の、もと中院家邸跡の地に、和気清麻呂公と姉の和気広虫姫を主祭神とした護王神社がある。
東の烏丸通に一の鳥居があり、北の下長者通に二の鳥居をもつ。
護王神社は和気氏が創建したとされる、高尾の神護寺に和気清麻呂公を祀ったことに始まる。
清麻呂公と広虫姫は、神護景雲3年(769)僧弓削道鏡が皇位を奪おうとした道鏡事件の際に、流刑されるも道鏡の野望を挫き、万世一系の皇統を守ったということで、孝明天皇が嘉永4年(1851)に、護王大明神の神号と正一位の神階を授け、その後明治7年(1874)に護王神社に改称され、明治9年(1886)に現在の地に遷座されて今に至る。
和気清麻呂公は、奈良時代末期(733年)から平安初期(799年)を生きた人物で、現在の岡山県和気町に生まれ、後に奈良の都に出て朝廷に仕えた。
神護景雲3年(769)に、権勢を振るっていた僧・道鏡は、天皇の座を奪おうと企て、宇佐八幡宮より「道鏡が皇位につくべし」との神託があったと奏上し、自ら皇位に就くことを望んだのである。
この時に宇佐八幡宮に神託の真偽を確かめに赴いたのが和気清麻呂で、その神託が偽りであることを暴き、道鏡の野望を未然に防ぐのである。
しかしこのことで、道鏡を天皇に望んでいた女帝称徳天皇の逆鱗に触れ、清麻呂は姉広虫とともに流罪となるのだが、道鏡失脚後に都に戻される。
その後一時地方へ転出させられるが、桓武天皇の時に重用され、延暦12年正月、狩猟にことよせて桓武天皇を東山に誘い、京都盆地を見下しながら長岡から京都への遷都を進言し、長岡京の建設が中止され平安遷都が決定あうることになる。
清麻呂公は後に、造営大夫として精魂を傾けて都づくりに尽くし、翌、延暦13年10月22日に、平安遷都が実施されるのである。
説明板には、
『和気清麻呂公は、延暦12年正月狩猟にことよせて、桓武天皇を東山にお誘いし、京都盆地を見下しながら、長岡から京都への遷都を進言しました。
それが認められて長岡京の建設が中止されるとともに、平安遷都が決定しました。
清麻呂公は後に、造営大夫として精魂を傾けて都づくりに尽くし、翌、延暦13年10月22日に、遷都となりました。』
出典:【平安京をつくった人の説明板】より
この神社には狛犬のかわりに猪が置かれている。
これは和気清麻呂公が大隅国(現在の鹿児島県)へ配流の祭に、道鏡から差し向けられた刺客に襲われた時に、どこからともなく300頭の猪が現れ難を逃れたという説と、
皇統をお守り出来たお礼に宇佐八幡へのお礼参りに向う際に、どこからともなく300頭の猪が現れ、八幡宮までの十里の道を案内したという説がある。
このことから、公を救った猪を霊猪と称え拝殿前に雌雄一対の猪が対峙しているほか、境内には猪に因むものが多くあり、いのしし神社とも呼ばれている。
またこのことで、清麻呂公は萎えていた足が治ったといい、護王神社は足腰の治癒のご利益のある神社として、足腰にまつわるお守りやお札が並んでいる。
説明板には、
『この護王神社にお祀りされている和気清麻呂公は、神護景雲3年(769)怪僧弓削道鏡が皇位を奪おうとしたとき、宇佐八幡宮の御神託によってその野望を挫かれた。
そのため公は道鏡の怒りを買い、大隅国(現在の鹿児島県)へ追いやられたが、その途中、万世一系の皇統をお守りできたことに感謝するため、豊前国の宇佐八幡宮へお礼参りに向かわれた。
その時、どこからともなく三百頭もの猪が現れ、公の周りを囲んで宇佐八幡までの十里の道のりを無事に案内した。
そして公が悩んでおられた足萎えも不思議に治ったという。(「日本後紀」巻八)
当神社では、公を救った猪を霊猪と讃え、拝殿前には公の随神として雌雄一対の猪が相対峙している。
そのおかげで、足の病気や怪我に悩む人々をはじめ、旅行安全や災難除けを願う人びとから厚く崇敬されている。』
出典:【和気清麻呂公と霊猪の説明板】より
護王神社(京都市上京東烏丸通下長者町下ル桜鶴圓町385)
京都駅から
▼京都市営地下鉄烏丸線で『丸太町』(所要6分)
「丸太町」から、北に徒歩7分
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