鳥羽・伏見の戦いの戦端が開かれたのが、鳥羽街道(伏見)の鴨川に架かる「小枝橋」であった。

01小枝橋mid
現在の「小枝橋」は、京都市南区上鳥羽と伏見区中島ちに架かるコンクリートの橋で、戦端が開かれた「小枝橋」は、
現在の橋から鴨川沿いに南へ、千本通と城南宮通の交差する辺りが元の小枝橋が架かっていた場所であり、全長123m、全幅5.3mとあり、撤去年月2002年3月と記されていた。
碑文には、
『その昔京都(平安京)への渡り口である小枝橋は、いい伝えによりますと杭を打った上に板を渡した木の橋であり、その後、昭和のコンクリートの橋が出来る迄は、土を固めた土橋であったと伝えられています。
この橋は京都が都と云われた時代には重要であり、当時、大阪(浪速)に渡来した大陸からの文化はすべてこの橋を渡って渡来して来たものと思われます。
当時、庶民にとっては何かにつけて都は憧れであり、西方からの旅人はこの橋迄たどりつく事により、安堵したとのことです。
そして以前は時により鴨川が氾濫して橋が流された様です。
又、明治維新や日本赤十字社の創設の原因を作った戊辰戦争の戦端が開かれた場所でもあります。
昭和に入って交通機関の発達する迄は、小枝橋を荷車や歩行の人々が利用していました。
現在は地元民や伏見地域の人々は元より、東西南北の通過橋としてかけがえのない、ふれあいとコミュニケーションが保たれる橋として役立っています。』
                       出典:【小枝橋についての碑文】より
小枝橋は京の都への入口であり重要な橋であったのだが、この橋を一躍有名にしたのが、鳥羽伏見戦の戦端が開かれた場所だからである。

02鳥羽伏見mid
千本通りと城南宮通の両方の標識が掛かる交差点に、鳥羽伏見戦跡と小枝橋の碑そして京へという道標がこのような形で並んで建っている。
旧の小枝橋はこの道を上に行ったすぐの鴨川に架かっていて、現在の小枝橋からみると少し下流に架かっていたようだ。
小枝橋を挟んで、大阪から京都に攻め入ろうとする桑名会津の幕軍と城南宮に陣を敷いた薩摩長州軍との間で、小枝橋を渡る渡らせないとの押し問答があり、ついに薩摩軍が発砲をしこれを機に、鳥羽伏見一帯で戦端が開かれ、ここから上野の彰義隊、会津の白虎隊、函館の五稜郭へと幕府壊滅の道をたどる戊辰戦争の序章となったのがここに架かっていた小枝橋である。

03小枝橋跡mid
『明治元年(1868)正月3日(太陽歴1月27日)夕方、この付近での戦が、鳥羽伏見戦の発端となった。
王政復古ののち、将軍の領地返納をきめた朝廷、薩摩、長州藩らの処置を不満とした幕臣、会津、桑名軍は正月1日挙兵、大阪から京都へ攻め入ろうとし、薩摩、長州軍はこれを迎えうった。
城南軍には薩摩の野津鎭雄(しずお)らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍、幕府大目付滝川具挙(ともあき)が、小枝橋を渡ろうとするのを阻止して、談判の後、ついに薩摩軍から発砲した。
この一弾があたかも合図となって、戦端はひらかれ鳥羽伏見両方面で激戦が続き、正月6日幕府軍は敗退した。この一戦をきっかけに戊辰戦争が始まった。』
                     出典:【此付近鳥羽伏見戦跡の駒札】より

鳥羽伏見戦跡(小枝橋)(京都市伏見区中島秋ノ山町)
京都駅から
▼近鉄電車京都線で『竹田』下車(所要7分)
「竹田」から、西に徒歩25分