伏見桃山は東山丘陵の南端にあたり、南には巨椋池が広がり、奈良や大坂への要衝の地だったのである。
その伏見の地に築かれたのが、伏見城である。
最初の伏見城は、豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)直後の、文禄元年(1592)に、自身の隠居所として、伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に築城したことから「指月伏見城」と呼ばれる。
この城は秀吉好みの金、銀を装飾した豪華絢爛たる城であったが、文禄5年(1596)の慶長伏見地震により、城郭は脆くも倒壊するのである。
そのために、指月から北東1Kmの木幡山(現在の伏見桃山陵あたり)に新たに城を築き、慶長2年(1597)に完成する。
木幡山にあったことから「木幡山伏見城」と呼ばれる。
五層の天守の本丸を中心に、二の丸、松の丸、名護屋丸など12棟の廓からなる壮大な城であった。
しかし、その1年後の慶長3年(1598)に秀吉はこの城で没するのである。
秀吉の死後、秀吉の子、秀頼は大坂城に移り、この城には徳川家康が入り、政務を執るのだが・・・
その後、関ケ原の戦い(1600年)の前哨戦といわれる戦がこの城で起きるのである。
家康の重臣・鳥居元忠が討死覚悟で籠城するのだが、石田三成の軍勢に攻められ落城し、城の大半は焼失してしまうのである。
この時の伏見城の建物の床板は、後に血染めの天井として、養源院や正伝寺などに使用されている。
関ケ原の戦いに勝利し豊臣家が滅亡すると、徳川家康は慶長7年(1602)に、木幡山に伏見城を再建するのである。
これが三度目の伏見城築城である。
ここで家康は征夷大将軍の宣下を行い、自他ともに認める天下人となるのである。
やがて徳川の世が安定し、三代将軍・家光が将軍宣下をすると伏見城の存在価値が薄れ、元和5年(1619)に伏見城は廃城となり、城の原型をとどめることもなく、取り壊されてしまうのである。
壊された建造物は各地に移設され、本丸御殿は二条城に、隅櫓は淀城や福知山城に移築され、また西本願寺や豊国神社、高台寺、御香宮などでも伏見城の建物を見ることが出来る。
徳川によって徹底的に破壊された伏見城の跡には、物が植えられ桃の名所となるのである。
伏見城の跡に桃の木が植えられたのは元禄時代の頃で、いつからともなく、このあたりが桃山と呼ばれるようになる。
それから伏見城のことを桃山城とか伏見桃山城と呼ぶようになるのであり、桃山城という城は存在しないのである。
伏見城が桃山城と呼ばれるようになったもう一つの理由は、近鉄が昭和39年(1964)に「伏見桃山キャッスルランド」という遊園地を、伏見城お花畑山荘の跡地に開園し、そのシンボルとして五層の大天守と三層の小天守を造ったことも、桃山城のイメージを膨らませたのである。
残念ながらこの公園は、平成15年(2003)に閉園となったが、天守閣は地元市民の要望で取り壊されることなく、伏見桃山城として残っているのだが、耐震基準に満たないため立ち入りは出来ないのである。
現在伏見城跡は明治天皇の桃山御陵のため、発掘調査も立入り長さも出来ず、伏見城の全貌は明らかにはなっていないのである。
指月伏見城(京都市伏見区桃山町泰長老)
京都駅から
▼JR奈良線で『桃山』下車(所要33分)
「桃山」から徒歩10分
木幡山伏見城(京都市伏見区桃山町大蔵)
伏見桃山城(京都市伏見区桃山町大蔵)
京都駅から
▼JR奈良線で『桃山』下車(所要33分)
「桃山」から徒歩18分
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