岡崎にはその昔、六つのお寺があった所で、その六つの寺を称し「六勝寺」という名で呼ばれていた。
六勝寺とは、院政の期(12世紀)にこの岡崎に天皇の個人的な思いで、豪壮華麗な寺が建てられたもので、ときの天皇の権力によりその規模は異なるが、その何れの寺にも「勝」の字が付けられていた為に、六つの勝の寺で「六勝寺」と総称された。
天災や人災によりこれらの寺は今はもうこの世にはなく、その名残を町名に残しているのみである。
六勝寺の所在は・・・
1.尊勝寺は、73代堀河天皇により、康和9年(1102)に建立され、現地名は「岡崎尊勝寺町」と「岡崎西天王町」とにまたがっている。
2.延勝寺は、76代近衛天皇により、久安5年(1149)に建立となり、現「東大路二条下ル東西の両側」である。
3.成勝寺は、75代崇徳天皇により、保延5年(1139)に建てられ、現名は「岡崎成勝寺町」と「神宮寺東側」とにまたがっている。
4.円勝寺は、待賢門院(鳥羽天皇の中宮で75代崇徳・77代後白河天皇の母であり、源平が入り乱れ戦った保元の乱は、この長子「崇徳」と四子「後白河」の権力争いであった)により、太治3年(1128)に建てられ、現「岡崎円勝寺町」にあたる地域である。
5.最勝寺は、74代鳥羽天皇により、元永元年(1118)の建立で、現名は「岡崎最勝寺町」である。
6.法勝寺は、72代白河天皇により、承暦元年(1077)に建てられて、現地名は「岡崎法勝寺町」と「京都市立動物園」とにまたがる地域である。
法勝寺は、六勝寺の中で一番大きい寺であり、72代白河天皇により一番最初に建てられた寺である。
この六つの寺を建てた天皇の中では白河天皇がその身をまっとうし、院政を敷いて77才まで3代の天皇、43年間も政権の座に君臨したのだが、堀河、鳥羽、崇徳と三代に亘る院政は、この後の天皇家による政治を危うくしたのである。
「賀茂川の水」と「双六の賽の目」そして「比叡の山法師」が不如意(意のままに成らないもの)だと嘆いたというが、裏を返せばこれ以外はどうとでも成ったということであり、藤原璋子や藤原得子という稀に見る美女も、その権力によって意のままにしたという白河の君(治天の君ともいうらしい)が建てたのが法勝寺である。
法勝寺は、もともとは藤原良房の別荘だった「白河院」であるのだが、藤原師実の時に白河天皇が所望し、承保2年(1075)に法勝寺が建てられた。
法勝寺は六つの寺の中では一番大きく、東は疏水記念館あたり、西は岡崎道、南は京都市動物園の疏水の辺り、北は冷泉通と広大な寺域を有し、そこには豪奢な堂塔伽藍がひしめいていたとのことである。
ところが文治元年(1185)の大地震、更に康永元年(1342)の火災などにより堂塔伽藍が失われ、その後覚威和尚により再建されるも衰退し、ついにこの地から無くなってしまうのである。
駒札には、
『白河院は、もと藤原良房の別荘で、北家藤原氏によって代々受け継がれてきたが、藤原師実(もろざね)の時、白河天皇に献上され、承保2年(1075)天皇によってこの地に法勝寺が建立された。
法勝寺は、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺とともに六勝寺と総称された寺で、東は岡崎道より300m東、西は岡崎道、南は現在の動物園の南、北は冷泉通より50m南に囲まれた広大な寺域を有し、境内には、金堂、講堂、阿弥陀堂、法華堂、五大堂、八角堂、常行堂などの諸堂が立ち並んでいた。
中でも池の中島の八角九重塔は壮大な高塔であったといわれている。しかし、文治元年(1185)の大地震により九重塔以外の諸堂の大半が倒壊し、更に康永(こうえい)元年(1342)の火災により残る堂舎も焼失した。その後覚威和尚によって一部再建されたが、衰退の一途を辿り、やがて廃寺となった。』
出典:【白河院並びに法勝寺跡の駒札】より
法勝寺跡(京都市左京区法勝寺町)
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統で『岡崎法勝寺町』下車(所要33分)
「岡崎法勝寺町」からすぐ
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