蹴上は琵琶湖疏水がひかれた時に、この間だけは高低差が大きく、船をとおす水路をひくことが出来ず、一旦、船を台車に乗せ九条山から南禅寺船溜までを運んだのであり、傾斜鉄道との意味から、インクラインと呼ばれ、この両側に桜の木が植えられて、今では春になると花見の人達で賑わうのである。
大津から京都を往来するのに、「これやこの、行くも帰るも別れつつ、しるもしらぬも逢坂の関」と歌われた逢坂の関や、日ノ岡の峠などを越えるのが大変であったようで、その為に、琵琶湖から水を引き水運を利用して大津と京の往来を楽にしようということで、琵琶湖疏水を水運に利用しようとしたのである。
インクラインは疏水の一部で、蹴上船溜と南禅寺の船溜との間に高低差があり、この間を船を台車に乗せて運ぶという方法で、人や荷物を積み変えることなく運べるようにしたもので、四条の鉄軌道を設け船を台車に乗せ、ウインチを利用して台車を巻き上げるという方法が取られている。
ウインチを動かすのに、疏水の水量を利用した蹴上発電所の電力を使って動かしたようで、台車に乗った船とウインチが今は使われなくなったレールの上に、昔の活気のあった頃の疏水を思うよすがもないが、静かにたたずんでいる。
インクラインは、
『インクラインは、蹴上船溜(ダム)や南禅寺船溜に到着した船から乗り降りすることなく、この坂を船ごと台車に載せて昇降させる目的で建設された。
当初、蹴上から分水した水車動力(20馬力、15KW)によって水車場内のウインチ(巻上機)と水中の滑車を回転、ワイヤーロープでつないだ軌道上の台車を上下する構造を考えていた。
その後、明治21年(1888)、田邊技師、高木文平調査委員が訪米し、アスペン銀鉱山の水力発電を視察した結果、インクライン動力源を水車動力から電力使用に設計変更され、事業用としては我が国初の蹴上発電所を建設することになった。
この電力が世界最長のインクラインに35馬力(25KW)、時計会社に1馬力(0.75KW)などの産業用、電灯用として活用された。
明治27年(1894)には伏見区堀詰町までの延長約20Kmの運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疎水を通じて結ばれ、北陸や近江、あるいは大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年(1911)には渡航客約13万人を記録した。
しかしながら、時代の流れで大正4年(1915)には、京津電車、京阪電車が開通旅客数が3万人台に激減したのに加え、国鉄(JR)の方でも東山トンネルが開通して大正10年(1921)に現在の山科駅が開設されたため、京津間の足としての疎水の機能は実質的に失われることとなった。
一方、貨物の輸送量は、大正14年(1925)には、史上最高の22万3千トン、1日約150隻を記録した。
やがて、陸送化がどんどん進み昭和26年(1951)9月、砂を積んだ30石船が最後に下り、疎水舟運60年の任務を終えた。
こうして、琵琶湖疎水・インクラインは文明開化以降における画期的な京都再生の役割を果たした。
平成8年(1996)6月には、国の史跡指定を受け、今日の京都を築いた遺産として後世に永く伝えるため形態保存している。
出典:【インクライン(傾斜鉄道)】より
インクライン(京都市左京区粟田口山下町~南禅寺草川町)
京都駅から
▼京都市営地下鉄烏丸線で『烏丸御池』(所要6分)東西線に乗換『蹴上』下車(所要8分)
「蹴上」から。徒歩3分
▼「A1」乗り場から5系統で『岡崎法勝寺町』下車(所要33分)
「岡崎法勝寺町」から、徒歩5分
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