角屋が揚屋を廃業し「角屋もてなしの文化美術館」となったのに比べ、もう一つ残っているのが置屋であった「輪違屋」である。
輪違屋は今も島原で「置屋」と「揚屋」を兼ねて、営みを続けている。

01輪違屋(1)mid
輪違屋は元禄元年(1688)に創業され、当時は置屋であったのだが、明治維新を迎え島原遊郭が新興の花街に客を奪われ寂れてゆく頃から、明治5年(1872)に置屋と揚屋を兼ねるようになったのである。
建物は、安政4年(1857)に再建され、明治4年(1871)に現在の姿になっている。
襖に太夫道中の傘を貼った「傘の間」や紅葉を型取りし菜食した壁がある「紅葉の間」などがあり、近藤勇の書になる屏風や桂小五郎書の掛軸が残っている。

02輪違屋(2)mid
「輪違屋糸里」は浅田次郎が新選組発足の初期から芹沢鴨暗殺までの出来事を、輪違屋の遊女・糸里を主人公として、女の目線で描いた小説である。
事実、幕末には新選組の面々が島原に遊び、近藤勇は深雪大夫、土方歳三は花君大夫、山南敬助は明里、永倉新八は小常、伊東甲子太郎は花香大夫と、それぞれに輪違屋の大夫・芸妓と馴染みを繋いでいたのである。
島原には、維新の名花と言われた「桜木太夫」がいたのだが、浅田次郎さんの「輪違屋糸里」では、糸里が桜木太夫となるのだが、新選組の土方歳三との悲恋を絡めた作り事であり、糸里が輪違屋に居たということも、定かではないのである。

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駒札には、
『輪違屋は、太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1689から1704)の創業と伝える。
現在の建物は、安政4年(1857)に再建されたといわれるが、その後増改築がなされて明治4年(1871)にはほぼ現在の姿になった。
平面構成は複雑だが、大きく分ければ一階南半分の居室部分と一階北半分及び二階を占める客室部分からなる。
客室は十数室あり、二階の「傘の間」「紅葉の間」が主要な座敷で、その襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。
輪違屋は、建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、昭和59年(1984)6月1日、京都市指定文化財に指定された。』
                           出典:【輪違屋の駒札】より

04西門跡mid
島原の出入口は、東の大門と西門とがあり、新選組の壬生屯所から来ると、西門から入ることになる。
西門は享保17年(1732)に柱を立てただけの門が作られ、天保13年(1842)に東の大門にもひけをとらない門が作られたのだが、昭和52年(1977)にトラックがこの門を壊してしまった。
北隣に中央青果卸売市場があり車の出入りが激しすぎてのことだったらしい。3年後に門柱が復元されたがこれもトラックに壊されてしまい、今は石碑のみが、その跡に残っているのである。
新選組の隊士たちも幾度となく通ったであろう西門が今に残っていないのは残念なことである。
石碑の碑文には、
『島原は、寛永18年(1641)、官命によってその前身の六条三筋町の傾城町が、ここ朱雀野に移されたことに始まる。その移転騒動が、当時九州で勃発した島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれたが、正式地名は、西新屋敷という。島原は江戸期を通じて公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展していくが、遊宴を事とするにとどまらず、和歌俳諧等の文芸活動を盛んにし、ことに江戸中期には島原俳壇を形成するほどの活況を呈した。
島原の入口は当初東の大門のみであったが、享保17年(1732)に西側中央部に西門が設けられた。それは両側に門柱を建てただけの簡略なものであったが、天保13年(1842)に現在地に移され、構えも冠木門に切妻屋根、さらに控柱に小屋根を設ける高麗門型となった。
近年まで島原の西門として偉観を伝えていたが、昭和52年(1977)11月、輪禍によって全壊した。三年後に門柱のみが復元されたが、平成10年(1998)4月、再度の輪禍に見舞われてそれも倒壊した。
よって、ここに碑を建立して、島原西門の由来と往時の形容を刻するものである。
花の色は いひこそ知らね 咲きみちて 山寺遠く 匂ふ春風』
                         出典:【島原西門碑の碑文】より

京都を歩くHP「糸里の居た島原」にリンク 島原|京都を歩く

輪違屋(京都市下京区西新屋敷仲之町114)
京都駅から
▼「A3」乗り場から206系統で『島原口』下車(所要9分)
「島原口」から、西へ徒歩8分