今、島原に残る建物は、置屋であった「輪違屋」と揚屋であった「角屋(すみや)」そして「大門」のみである。
其の一つ「角屋」は揚屋の商いを辞め、平成10年(1998)から「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されている。
角屋には、東の大門を入り真直ぐに西へ、中ほどを左に曲がると角屋である。
大門までの通りはほぼ真直ぐで、角屋の角から大門が見える。
角屋は揚屋で、今で云うお茶屋さん、太夫、芸妓は置かずに都度、置屋の輪違やから呼んで客をもてなすのである。
角屋は寛永18年(1641)に創業され、揚屋として室内装飾も華美を尽くし、各室の障壁には名人の書画が飾られ、網代の間・翆簾(すいれん)の間・孔雀の間・八景の間・桧垣の間・緞子(どんす)の間・青貝の間などがあり、揚屋としての驕奢を極めた昔を思ぶことが出来るのである。
角屋の建物は切妻造、桟瓦・杮葺き及び銅板葺きの木造2階建で、幾度かの増改築を繰り返していて、古い部分は寛永18年(1641)頃だといい、延宝年間(1673~1680年)に主要部分が完成をする。
天明6年(1786)に隣地を購入し増築をしている。
2階の部屋は、建具に緞子を張る「緞子の間」、襖絵に翆簾が描かれ、最も古い「翆簾の間」、天井に扇面を貼る「扇の間」、壁に青貝を埋め込んだ「青貝の間」、桧垣の文様の「桧垣の間」など、各部屋の装飾や意匠に変化を付け、揚屋建築の粋を極めている。
駒札によれば、
『角家は江戸時代に繁栄した旧花街・島原を代表する揚屋(現在の料亭)で、明治時代にお茶屋業に編入された後も、昭和60年(1985)まで営業が続けられた。
島原は、我が国最初の官許の花街で、当初は二条柳馬場に開かれ、その後、六条三筋町に移転し、更に寛永18年(1641)にこの地に移された。
正式な地名は西新屋敷というが、急な移転騒動が、当時の九州で起こった島原の乱に似ていたことから、島原と呼ばれるようになった。
島原には、揚屋と置屋があり、揚屋は太夫・芸妓などを一切抱えず、置屋から太夫等を読んで宴会を催す場であった。
角家の建物は、揚屋建築唯一の遺構として昭和27年(1952)に重要文化財に指定された。
また、円山応挙・与謝蕪村など、当時の一流画人の作品を多く蔵し、蕪村の大作「紅白梅図」は重要文化財に指定されている。
江戸中期には、俳壇が形成されるなど文化サロンとしての役割も担い、また、幕末には西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤皇の志士たちが、軍用金調達のために時の豪商を招いて会議を行い、彼等を探し求めた新撰組が乱舞した場所でもあった。
こうした江戸時代の社交遊宴文化の余香を今に伝える角家は、現在「角屋もてなしの文化美術館」として一般に公開されている。』
出典:【角屋の駒札】より
角屋もてなしの文化美術館(京都市下京区西新屋敷揚屋町32)
京都駅から
▼「A3」乗り場から206系統で『島原口』下車(所要9分)
「島原口」から、西へ徒歩10分
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