京都駅から206系統のバスで「島原口」で降り西に4分ほど歩くと、幅一間、切妻造・本瓦葺の高麗門がある。
大門にあるのが見返り柳で、客が遊女との別れ際に振り返って別れを惜しんだといわれているが、遊女が名残を惜しんだというのは極めて少ないことだったようである。
「見返りの 柳をみつつ 秋風に からすころして 太夫と朝寝」
この門をくぐると「島原」と呼ばれた遊郭があった所である。
京都には「京都五花街」と呼ばれる「上七軒」「先斗町」「祇園甲部」「宮川町」「祇園東」があるのだが、「島原」はその花街よりも古く室町時代にはあったと言い、時々に場所を変え、此の地に移ったのは、江戸時代の寛永18年(1641)であったという。
五花街はいずれも花街がある地名からその名が付いているが、島原だけは地名ではない。
島原のある所の地名は西新屋敷という。
島原は、天正17年(1589)豊臣秀吉の時代に、二条万里(までの)小路に日本で初めて公に許された「二条柳町」遊郭が出来たのが、島原の起こりだという。
徳川の時代となり慶長7年(1602)に二条城の築城にともない、東本願寺の北、六条坊門に移転し「六条柳町」と呼ばれるようになる。
さらに宝永17年(1640)に六条坊門から朱雀町へと移ることになるのだが、この3年前に九州島原で天草四郎率いるキリスト信者が原城に立て籠もり、「島原の乱」を起こすのである。
六条坊門から朱雀町への移転が急な事でもあり、慌ただしく移ったことから、島原の乱の直後ということもあり、移転先の名を「島原」と呼ぶようになったのだという。
また堀と塀に囲まれ入口が一つしかないという佇まいが、原城に似ていたからとも、また周囲一帯が一面野原で、その一角だけが島のように見えたからだとも云われる。
島原が最も栄えたのは江戸の元禄期(1688~1704年)で、単に遊宴を事とするのではなく、和歌・音曲・踊り等々の教養、格式の高さがあった花街であった。
しかしながら、立地条件の悪さや格式の高さから、新しく出来た祇園や上七軒などの遊里に客が流れ、嘉永4年(1851)の大火が追い打ちをかけ、徐々に衰退をするのである。
さらに新選組が客になると、一般客が避けるようになり、閑古鳥が鳴くようになる。
新選組が京から追われ、明治維新を迎えると、ますます島原遊郭は衰退をし、そして昭和後期にお茶屋組合が解散して住宅地となり、現在は「大門」「輪違屋」「角屋」「島原住吉神社」「西門跡」などが残るのみとなってしまった。
『豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。
その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。
正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。
島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾域が女歌舞伎を催したとき、優れた傾域を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。
太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。
また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。』
出典:【島原の駒札】より
島原(京都市下京区西新屋敷町)
京都駅から
▼「A3」乗り場から206系統で『島原口』下車(所要9分)
「島原口」から、西へ徒歩4分
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