隋心院には小野小町に因むものとして、「小町化粧井戸」と「小町文塚」が残っている。

01小町の井戸mid
北門を入ると「小町化粧井戸」の石碑が建つ。
今は水が湧いている様子もなく、ここで化粧の水を汲んだとも思えないような井戸跡が残っているのだが、この辺りが小町の屋敷跡と言われ、その邸内にあったのがこの井戸である。
小野小町は平安時代前期の人と言われ実在した人物だったようであるが、その出自や没年は不明である。
生まれは、秋田県湯沢市小野とも、また福島県小野町、また福井県越前市とも言われ、京都山科のこの小野の地で晩年を過ごしたともいう。
また小町の墓なるものが全国に存在する。東北から関東、京都から山陰・山陽とその場所は多岐にわたっている。
このようなことから、小町は本当に存在したのだろうかという疑問も湧くが、「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」など小町の詠んだ多くの歌が残っているので実在の人物だったのだろう。
描かれた小町の姿は、その殆どが「うしろ姿」であり、顔をみることが出来ない。
その顔を描けば、美人が美人で無くなってしまうということを知っていた絵師が、顔を描かなかったことで、美人のイメージを見るものに膨らませ、美人の伝説を作り上げていったのであろう。

02文塚mid
隋心院の東側の小道を入り裏辺りに「小町文塚」の五輪塔が建っている。
小町はその美貌と教養の高さで世の男性を虜にしたらしく、新古今集に、
「おもいつつ 寝ればや人の 見えつらむ  夢と知りせば 覚めざらましを」
「いとせめて 恋しきときは むばたまの  夜の衣を 反してぞ着る」など、世の男どもをぞくっとさせるような歌を詠んでいる。
多くの貴公子から恋文を寄せられるのだが、その文を埋めた塚と言い伝えられているのだが、文を寄せた貴公子のなかに、深草少将がいる。
深草少将は伏見の欣浄寺(24号線の撞木町の遊郭跡から師団街道を北に、伏見税務署が見えてくると、そのすぐ横に欣浄寺の案内が見え、ここを右に入ると「欣浄寺(ごんじょうじ)」である。)辺りに住み、小野小町に恋焦がれ、小町の住む山科の小野の里に百日の夜通いつめたら、その思いを叶えてあげると小町に言われ、毎夜々々、雨の日も風の日も深草から小野の小町のもとに通うのである。
しかし、女心は裏腹で、百日も毎夜通うことは出来ず、諦めるであろうと思っていたのだが、あにはからんや毎夜々々通ってくる。
百日の夜が近づくにつれ、どうしようかと小町は不安になり、とうとう99日めの夜が終わり、明日は百日めという前の晩、小町は神に祈り「どうか明日は大雪で、ここには来れないように」と願を掛ける。
神も無情でこの願いを聞いて、百日目に大雪を降らせ深草少将は百日目の夜を目の前にして、小町の所には辿り着けず、命を落としてしまうのである。
これを深草少将の百夜(ももよ)通いという。

03墨染の井mid
深草少将たる人物は、実在の人物ではなく、室町時代に世阿弥ら能作者などが、小野小町を引立たせるために創作をしたもので、伏見の欣浄寺をその住まいとしたものだというのだが、そのモデルは、良峰宗貞(よしみねのむねさだ) といい、出家しては遍照(へんじょう)と名乗った人ある。百人一首に、「あまつ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」と詠んだ歌が残っている。
欣浄寺には、少将の遺愛の井という「墨染の井」が残っており、その駒札には西条八十が詠んだ、「通ふ深草 百夜の情 小町恋しの 涙の水が 今も湧きます 欣浄寺」が記されている。

04塚mid
小町に因む謡曲に「通小町」と「卒都婆小町」がある。
「通小町」とは市原野で小町の亡霊に会った僧が受戒を頼まれるが、そこに深草少将が現れ受戒を妨げようとする。
僧は百夜通いの様子を小町と少将とに語らせ、それを再現してゆくのだが、百日目の満願成就に、二人は契りの盃を交わそうとするが、仏の戒めにより酒を酌み交わすことは出来ず、そのことで二人は悟りを開き救われるというものである。
また「卒塔婆小町」とは、卒塔婆に腰掛ている老婆を、高野山の僧が見咎めそれを諭すのだが逆に論じ込められてしまい、その名を聞くと小野小町だという。
その出自を語るのだが、自分を慕い九十九日目で亡くなった深草少将の霊に取り憑つかれているのだという。ような話立てである。
いずれも小町の美貌に因んだ何ともいえないせつない話である。
欣浄寺境内には、小野小町の塚と深草少将(清涼院殿蓮光浄輝大居士)の塚が並んで建っている。

隋心院(京都市山科区小野御霊町35)
京都駅から
▼京都市営地下鉄・烏丸線で『烏丸御池』乗換(所要5分)、東西線で『小野』下車(所要19分)
「小野」から、徒歩5分