「はねず踊り」は三月の最終日曜日に、小野小町に恋をし小野の小町のもとに通い続けた「百夜通い」をテーマにしたもので、梅の咲く頃に、はねず色の小袖を着た少女たちが踊る行事である。(はねずとは梅花の薄紅色のことで、隨心院に咲く梅の花の色に因む。)
曼荼羅寺・隋心院門跡・小野御殿などと呼ばれる。
寛仁2年(1018)仁海僧正により創建されるが、応仁の兵火で堂宇の多くが焼失してしまい、現在の本堂は慶長4年(1599)の再建で、書院は徳川秀忠夫人の寄進になると言われる。
隋心院のある小野は小野小町の住んだ里として知られ、寺には小町の化粧井戸や文塚が残っている。
伏見の深草から、小町の住む山科の小野(伏見からその距離約5Km。伏見街道を通り、京都医療センターの横を通って、ひと山越して、山科に向かった道。大津街道とも)に出る山路は、深草少将が小野小町に恋焦がれ、、百日の夜通いつめたら、その思いを叶えてあげると小町に言われ、毎夜々々、雨の日も風の日も伏見から山科の小町のもとに通った路であり、これを深草少将の百夜(ももよ)通いという。
駒札によれば、
『真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師の八代目の弟子に当たる仁海(にんかい)僧正が正暦2年(991)に創建した。
もとの名は牛皮山曼荼羅(ぎゅうひざんまんだら)寺といいその名は、ある夜、亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見た仁海僧正が、その牛を探し求めて世話を尽くしたものの間もなく死んだため、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来する。
その後、第五世増俊(そうしゅん)が曼荼羅寺の塔頭として随心院を建立し、第七世親巌の時、後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨を受け、門跡寺院となった。
この辺り小野は小野一族が栄えた場所であることから、絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られ、境内には小町に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚や、化粧の井戸などが残されている。
梅の美しい寺としても有名で、三月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通い(ももよかよい)の悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」(はねずとは梅花の薄紅色のこと)が披露される。』
出典:【随心院の駒札】より
随心院は小野小町にゆかりのある寺で、随心院の庫裏の前には、
「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」と、小町が詠んだ歌碑が建つ。
その駒札によれば、
『「謡曲「通小町」の前段、即ち深草少将が小町の許に百夜通ったという伝説の舞台がここ隨心院である。
その頃小町は現在の隨心院の「小町化粧の井」付近に住んでいた。
積る思いを胸に秘めて訪ねて来た少将であったが、小町は冷めたかった。
少将は「あなたの心が解けるまで幾夜でも参ります。今日は第一夜です」と、その標(しるし)に門前の“榧(かや)の木”の実を出した。
通いつめた九十九夜-その日は雪の夜であった。門前にたどり着いた少将は疲れ切って九十九個目の“榧の木”を手にしたまま倒れ再起出来なかった。という。
隨心院の境内には思い出の「文張地蔵尊」「文塚」があり、道筋には榧の大木”がある。』
出典:【謡曲「通小町」と随心院の駒札】より
「はねず踊り」の「はねず」とは、薄紅色を指す古語であり、隋心院の梅は「はねずの梅」として古くから知られている。
「はねず踊り」は、深草少将の「百夜通い」の伝説を主題にしたもので、深草少将が小野小町を慕い「百夜通い」の願を掛けて通い続けたのだが、あと一日で百日という夜に大雪が降り、深草少将は百日目を目の前にして、小町の所には辿り着けず、命を落としてしまうのである。
その後、小町は「はねずの梅」が咲く頃に何もかも忘れたかのように、里の子たちと楽しい日々を過ごしたという。
「はねず踊り」がいつ頃から踊られたのかは分かっていないのだが、江戸時代の元禄の頃から踊られていたようだが、大正時代に一時中断され、昭和48年に復活され、今に至っている。
隋心院(京都市山科区小野御霊町35)
京都駅から
▼京都市営地下鉄・烏丸線で『烏丸御池』乗換(所要5分)、東西線で『小野』下車(所要19分)
「小野」から、徒歩5分




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