賀茂川と高野川との合流点の南に賀茂大橋が架かり、その上流には賀茂川に葵橋、高野川に河合橋が架かっている。
葵橋を渡り100mほどで、下鴨神社の一の鳥居があり、参道を進むと楼門となり、入ると舞殿、その左に神服殿、右に細殿・橋殿がある。
中門があり、その内に幣殿・祝詞舎が、その奥に本殿があるという造りとなっている。
本殿は文久3年(1863)の改築、その他の社殿は寛永5年(1628)の再建になる。
下鴨神社の名は、鴨川の下流に祀られていることから呼ばれる通称で、正式には「賀茂御祖神社」(かもみおやじんじゃ)と云う。
山城国一ノ宮で起源は古く、日本書紀神武天皇2年(BC658頃)の条にこの神社のことが記されている。
その昔、この地を治めた賀茂氏が創祀したと云われ、平安以前から存在する京都で最も古い神社である。
上賀茂神社とともに、平安京のできたころには、皇居の鎮護として崇敬されていた。
祭神は、東御本殿に「玉依媛命」(たまよりひめのみこと)、西御本殿に「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと:玉依媛の父)で、玉依媛が瀬見の小川の上流から流れてきた丹塗りの矢により身ごもり、上賀茂神社の祭神である「別雷神」を生んだという。
その母にあたるところから御祖(みおや)と呼ばれ、この神社が「賀茂御祖神社」と云われるようになったのである。
下鴨神社の境内をさらに奥へ……葵祭の斎王代が禊をする『御手洗池』がある。
『「井上社」別名を「御手洗社」とも云い、前身は「三代実録」、元慶3年(879)9月25日の条をはじめ諸書に見える「唐崎社」である。
賀茂斎院の御禊や解斎、関白賀茂詣の解除に参拝になった社である。
元の社地は、高野川と鴨川の合流地東岸に鎮座のところ、文明の乱により、文明2年(1470)6月14日焼亡したため、文禄年間(1592~96)に、この所に再興になり、寛永度(1629)式年遷宮より官営神社となった。
また、井戸の井筒の上に祀られたところから井上社と呼ばれるようになった。
賀茂祭(葵祭)に先立つ斎王代の「御禊の儀」や土用の丑の日に足を浸し疫病や病い封じを祈願して賑わう夏の風物詩「足つけ神事」、立秋前夜の「矢取の神事」など、祓の神事が執り行なわれるところである。
また、土用になれば、御手洗池から清水が湧き出るところから、下鴨神社の七不思議の一つとされ、池底から自然に吹き上がる水泡をかたちどったのが、「みたらし団子」の発祥と伝えられている。
「君がため 御手洗川を 若水に むすぶや千代の 初めなるらむ」(後撰若集)』
(賀茂斎院:賀茂神社に巫女として奉仕した、未婚の内親王)
(解斎(げざい):斎戒(飲食・行動を慎み心身を清める)をといて平常に戻ること)
(文明の乱:応仁の乱として良く知られている。応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで続き、応仁・文明の乱とも呼ばれる)
(足つけ神事:土用の丑の日に、御手洗池に足を浸し、井上社にお灯明をあげ、疫病や病い封じを祈願する)
(矢取の神事:下鴨神社の夏越祓で、御手洗池に立てられた斎矢(いみや)を奪い合う神事。玉依媛が瀬見の小川の上流から流れてきた丹塗りの矢により身ごもり、上賀茂神社の祭神である「別雷神」を生んだという古事による)
出典:【井上社別名御手洗社の駒札】より
駒札には、
『平安時代以前から存在する京都で最も古い神社の一つで、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。
上賀茂神社の祭神である賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)の母の玉依媛命(たまよりひめのみこと)と玉依媛命の父の賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)を祀ることから、正しくは賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)といい、上賀茂神社とともに賀茂社と称される。
平安遷都(794)後は王城の守護神として、朝廷をはじめ公家や武家の崇敬を集め、弘仁元年(810)以降、約四百年にわたり、斎院(斎王の御所)が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。
江戸末期の文久3年(1863)に造る替された東本殿と西本殿が国宝に指定されているほか、多くの社殿が重要文化財に指定されている。
また、約十二万四千平方メートル(東京ドームの約三倍)に及ぶ境内の自然林は「糺の森」として市民に親しまれ、平安京以前の原生林を残す貴重な森林として国の史跡に指定されている。
毎年5月15日には、京都三大祭の一つである葵祭が行われ、御所から当神社を経て上賀茂陣屋まで向かう行列が、都大路に王朝絵巻を繰り広げる。
また、5月3日の流鏑馬神事や7月の土用の丑の日に行われる御手洗祭などもよく知られている。』
出典:【賀茂御祖神社(下鴨神社)の駒札】より
下鴨神社(京都市左京区下鴨泉川町59)
京都駅から
▼「A2」乗り場から4・205系統で『下鴨神社前』下車(所要27~321分)
「下鴨神社前」からすぐ



コメント