その昔、お茶を飲むことは上流階級の文化だったのだが、それを庶民に広めたのが売茶翁(まいさおう)と呼ばれた高遊外である。

01売茶堂mid
高遊外は江戸中期の延宝3年(1675)5月に肥前国(佐賀県)み生まれ、11才で黄檗宗の禅僧として出家をし、月海と号した。
元禄14年(1761)26才の頃に、長崎で中国人から煎茶を学び、享保16年(1731)57才で京に上り売茶の業を始める。
鴨川のほとりに「通仙亭」という茶店を構え、四季折々に自ら茶道具を担いで、自然の中で茶を煎じて売ることも行った。
そこには「茶銭は黄金百鎰より半文銭、又くれずして只飲むも勝手、只より負け申さず」(茶の代金は小判二千両から半文まで、ただで飲んでもけっこう、ただより安くはできない)と掲げ、禅の心を説きながらの売茶が評判を呼び、68才で高遊外に改め、わが国善茶道の始祖となり売茶翁と呼ばれるようになり、後世に大きな影響を与えたのである。
宇治の萬福寺には高遊外を祀る「売茶堂」がある。
『右方窟紋内のよせむねのお堂が売茶堂。
煎茶道の祖売茶翁(まいさおう:高遊外・月海元昭禅師)が祀ってあります。
翁は当寺開寺禅師の曽孫にあたり、晩年、洛東・洛北名勝の地に茶席を設け行人に茶をすすめ風流三昧に余生をおくりました。
有聲軒は煎茶席庭園、庭園は太湖石、芭蕉、梧桐竹を配した煎茶趣味の庭園です。
社団法人全日本煎茶道連盟の本部がここにおかれています。』
                       出典:【売茶堂。有聲軒の説明】より

02萬福寺mid
萬福寺は中国明の僧・隠元禅師が承応3年(1654)63才の時、日本の招きにより多くの弟子とともに来日し、徳川幕府や後水尾法皇の帰依を得て、中国の黄檗山萬福寺の様式を模して建てた禅寺で、建物は中国明朝風で、境内に足を踏み入れると、中国に来たかのような感じがする。
伽藍の配置は建物を一直線に置き、左右に方丈、斎堂と禅堂、伽藍堂と祖師堂、鐘楼と相対している。
主要な建物はチーク材で、300年を経た今なおびくともしない。
山内に掛る隠元・木庵・即非・高泉らの筆になる聯(れん)や額は貴重で、また塔頭の宝蔵院には鉄眼(てつげん)禅師が飜刻(ほんこく)した、一切経の版木六万枚が所蔵されている。
また「山門を出づれば日本ぞ茶摘唄」と菊舎女が詠んだ句は、白壁がつづく萬福寺が明国風なのに対し、寺を出れば茶畑が広がる日本を詠んだものである。
                         参照:【最新旅行案内 京都】より

03煎茶mid
売茶翁没後二百五十年を記念して令和25年(2013)に、半木の道(北大路橋東詰)に、「売茶翁没後二百五十年記念碑」が建てられた。
碑文には、
遊鴨河煮茶/担茶具出蝸舎/択檻泉遊鴨河/鼎裏非人間味/神仙何覓瑶池
売茶翁高遊外
と刻まれ、その意味は副碑によれば、
鴨河に遊び茶を煮る/茶具を担い蝸舎(かしゃ:自分の家)を出(い)で/檻泉(かんせん)を択(えら)んで鴨河に遊ぶ/鼎裏(ていり)人間(じんかん)の味に非ず/神仙何(なん)ぞ瑶池(ようち:中国の伝説の池)を覓(もと)めん
売茶翁高遊外(まいさおうこうゆうがい)
とあるが、その文章も難解で理解出来ない部分がある。

萬福寺(京都府宇治市五ケ庄三番割34)
京都駅から
▼JR奈良線で『黄檗』下車(所要23分)
「黄檗」から、徒歩5分