京都市バスを「東天王町」で降り、西に歩くと岡崎神社があるのだが、その岡崎神社の西隣にあるのが「洛東岡崎御坊・岡崎別院」、別名を「親鸞屋敷」とも云い、親鸞聖人が居を構えた草庵の跡だった所である。
丸太町通に面して建つこの寺院は、真宗大谷派の東本願寺の別院で、浄土真宗の開祖・親鸞聖人が29才で比叡山を降り、この岡崎の地に庵を構えて、東山吉水の法然上人のもとに通ったという草庵の跡である。
この庵には29才から35才までと、承元の法難に連座して越後に流されて、60才を過ぎて赦免後にもこの草庵に住んだと云われる。
承元の法難(じょうげんのほうなん)とは、承元元年(1207)、法然上人門下の住蓮と安楽が催した念仏集会に宮中の女官が参加し、その内数名が念仏に帰依し出家したことを知った後鳥羽上皇が激怒し、不義密通を大義名分として、住蓮と安楽ら主催の4人を死罪、親鸞を含む門弟7人とその師である法然を流罪とした事件である。
この法難で、法然は讃岐国、親鸞は越後国に配流されている。
この草庵は、享和元年(1801)に東本願寺第20代達如上人と門徒衆によって再建され「岡崎御坊」と呼ばれた。
草庵づくりの本堂と庫裏・茶室は再建当時のものである。
明治9年(1876)に「岡崎別院」と改められ、後に学問所が移築される。
岡崎別院の由来には、
『江戸時代に流布した親鸞聖人の伝記である『親鸞聖人正統伝』は、29歳で比叡山を降り、吉水の法然上人の門に入った聖人は、この岡崎に庵室をしつらえ、そこから吉水の法然上人のもとに通ったという。
また承元の法難(念仏禁止令)に連座して越後に流され、赦免ののち関東での生活を経て、帰洛した親鸞聖人が、最初に住んだのもこの岡崎の草庵であったという。
こうした由来から「親鸞聖人正統伝」・「拾遺都名所図会」に当地は「親鸞屋敷」と呼ばれていた。
享和元(1801)年に東本願寺第20代達如上人(1780~1865)と門徒によって現在の本堂が創建された。
明治9年(1876)に「岡崎別院」と改められ、明治22年(1889)年には新門(新しく御門首になられた方)の御学館「清池館」が移築された。』
出典:【岡崎別院の由来】より
本堂の西には、親鸞聖人が越後に流される時に、姿をうつして名残を惜しんだと云われる池があり、「鏡池」とか「姿見の池」と呼ばれている。
姿をうつした池の西には「八房の梅」があるが、これは親鸞聖人お手植えの梅の木の由緒を伝えるものである。
岡崎別院(京都市左京区岡崎東天王町26)
京都駅から
▼「A1」乗り場か5系統で『東天王町』下車(所要36分)
「東天王町」から、徒歩5分
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