京都では金戒光明寺を「くろ谷さん」と呼ぶ。
なぜ黒谷さんと呼ばれているかというと、承安5年(1175)法然上人が比叡山西搭の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが起りで、正式名は「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」であるが、地元では「くろ谷さん」で親しまれている。

01くろ谷さんmid
駒札には、
『紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称、黒谷(くろだに)の名で親しまれている。
寺伝によれば、承安5年(1175)、法然上人が浄土宗の確立のために、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが当寺の起こりと伝えられている。
以後、浄土教の念仏道場として栄え、後光厳天皇より「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるに至った。
また、正長元年(1428)、後小松天皇より、上人が浄土教の真実義を悟った由緒により「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。
御影堂脇壇には、京都七観音・洛陽三十三観音の一つ、吉田寺の旧本尊と伝えられる千手観音立像を安置している。
また、御廟には上人の分骨を納め、廟前には熊谷蓮生坊(くまがいれんせいぼう:直實(なおざね))と平敦盛の供養塔二基が建てられている。
寺宝としては、山越阿弥陀図・地獄極楽図等の屏風や法然上人直筆の一枚起請文など数多くの文化財を蔵し、墓地には、国学者山崎闇斎、茶人藤村庸軒(ふじむらようけん)、箏曲開祖八橋検校(やつはしけんぎょう)などの墓がある。』
                         出典:【金戒光明寺の駒札】より

02本堂mid
会津藩は、寛永20年(1643)徳川3代将軍家光の弟保科正之が出羽最上から23万石で会津入り、以後200年、明治維新まで会津を治めることとなるのだが、徳川幕府末期の幕末に、幕府の力が弱まり京の治安が乱れると、会津藩主九代・松平容保は京都守護職を拝命し、重責を担うこととなる。
そして、京都守護職の本陣を金戒光明寺に置き、家臣一千名を駐屯させ京の治安を守ることになったが、会津家臣の犠牲も多くこの地に墓所を設けその菩提を弔うこととした。
西雲院には会津藩士の墓所があり、幕末の京都で斃れた二百三十七霊と鳥羽伏見で戦死した百十五霊を祀った、会津藩殉難者墓地がある。

03会津墓所mid
会津墓地の由来には、
『幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
文久2(1862)閏8月會津藩主松平容保公は、十四代将軍徳川家茂から京都守護職に任ぜられ同12月24日、家臣一千名を率いて京都に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受けて本陣の黒谷金戒光明寺に威風堂々と入陣した。
黒谷金戒光明寺は、自然の要塞になっており、御所や栗田口にも近く軍事的要衝の地であった。
また、大きな寺域により一千名の軍隊も駐屯することができた。
当時の京都は尊攘激派による暗殺の坩堝(るつぼ)と化していたが、守護職となった會津藩の活動には目を瞠(みは)るものがあり、翌年8月18日には激派の公郷を追放し、元治元年(1864)6月には守護職配下の新選組による「池田屋騒動」、7月18日19日の「禁門の変」の勝利などで治安は回復されてきた。
しかしながら會津藩の犠牲は大きく、藩士や仲間小者などで戦死、戦病死する者が続出した。
そこで本陣の金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られた。
その数は文久2年から慶應3年までの六ヵ年に二百三十七霊をかぞえ、後に慰霊碑を建立し鳥羽伏見の戦いの百十五霊を合祀した。
松平容保公は孝明天皇の御信任厚く禁裏洛中を挙藩一致して大義を明らかにし、會津軍の忠誠は、歴史にその名を残した。
この忠烈なる真義に徹した英魂の遺徳を顕彰せんが為にこの碑に由来を誌す。
松平容保公 都の歌会にて御詠
“窓前竹”
さす月よ うつるのみかは 友ずりの こゑさへ きよし 窓の呉竹』
                          出典:【會津墓地の由来】より

04鶴ヶ城mid
その後、会津藩は最後まで徳川幕府に忠誠を尽し、会津の武士で守られてきた「什の掟」、
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言(うそ)を言うことはなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ
  ならぬことはならぬものです。
を、原動力として戊辰戦争を戦いぬくのである。

くろ谷さん(金戒光明寺:京都市左京区黒谷町121)
京都駅から
▼「A1」乗り場か5系統で『東天王町』下車(所要36分)
「東天王町」から、徒歩15分