京都で先の戦いといえば、太平洋戦争や日清・日露戦争ではなく、「応仁の乱」のことを云うのである。
応仁の乱は、室町時代中期の応仁元年(1467)に始まり、文明9年(1477)まで11年間も続き、京のい町を灰燼に帰した戦いである。
その戦いが、この上御霊神社一帯で火蓋がきられたのである。
上御霊神社は出雲氏の氏寺で、出雲氏は天穂日命(あめのほひのみこと)を始祖とし、平安京が出来る以前に,出雲地方から山背国愛宕(おたぎ)に移ったという。
その名から出雲郷の地名が生まれ,現在でも出雲路や出雲路橋という名が残っている。
出雲氏ゆかりの上御霊神社のいわれを駒札によれば、
『祭神として崇道天皇(早良親王)、吉備真備、橘逸勢(はやなり)をはじめ、十三柱の神霊を祀る。
この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安京遷都(794)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに亡くなった八柱の神霊が祀られたといわれ、その後、明治天皇の御願により祭神五社が増祀され、現在に至っている。
平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会が度々行われ、疫病除けの霊社として名を広めた。朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めたが、特に御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿や牛車等、皇室からの寄附品を多数所蔵している。
本殿は、享保18年(1733)に下賜された賢所御殿を復元したものといわれている。
また、境内は「御霊の社(もり)」と呼ばれ、応仁元年(1467)正月18日に畠山政長と義就(よしなり)の合戦が行われ、応仁の乱の発端となった場所としても知られている。』
出典:【御霊神社(上御霊神社)の駒札】より
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そして、ここが応仁の乱が始った所であり、神社西の鳥居の横に「応仁の乱勃発地」の石碑が建っている。
上御霊の辺り一帯が10年も続き京の町を荒廃させた、応仁の乱の最初の戦が行われた所なのである。
ここも駒札に、その由来をみると、
『文正2年(1467)正月18日朝、この付近すなわち御霊の森(上御霊神社境内)での合戦から「応仁の乱」は始った。前日の17日深夜、畠山政長(まさなが)は自ら屋敷を焼いて、一族郎党や奈良筒井氏の成身院光宣(じょうしんいん こうせん)らと兵約二千を率いてここに布陣した。
翌18日早朝、畠山政長と畠山家の家督を激しく争っていた畠山義就(よしなり)が兵三千余で攻撃をしかけ、18日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝景(たかかげ)、ついで山名持豊(宗全)の命を受けた山名政豊が加勢した。しかし政長方には頼みの細川勝元がこの時点では動かず、まる一日の合戦の結果、政長方は持ちこたえられず退去した。これが「応仁の乱」の最初の合戦である。
その年の3月、年号は「文正」から「応仁」と改まり、細川氏・山名氏の両陣営はそれぞれに味方を集めて戦時体制をかため、5月から上京を中心に、将軍・足利義政の後継者争いも絡み合う、東西両軍の全面的な戦に入った。この戦は京の都を疲弊させ、室町幕府の権威を失墜させたが、厭戦の風潮の中、細川・山名両氏の間に和睦が成立し、文明7年(1477)、11年間に渡る大乱はようやく収束をみた。
なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。』
出典:【応仁の乱勃発の地の駒札】より
上御霊神社(京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495)
京都駅から
▼京都市営地下鉄烏丸線で『鞍馬口』下車(所要11分)
「鞍馬口」から、東に徒歩3分
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