蛤御門は、京都御苑西側のほぼ真ん中にある門で、地下鉄烏丸線の「丸太町」または「今出川」のどちらの駅からも、歩いて12分である。

01蛤御門(1)mid
蛤御門は、本来は新在家御門と言われていた高麗門型の筋鉄門である。
江戸時代の大火で、それまで開かなかったものが開けられた為に、焼けて口を開く蛤のような門と言われるようになり、いつしか蛤御門と呼ばれるようになった。
新在家御門を開かせた江戸の大火は二説があり、
ひとつは、宝永5年(1708)に御所を含め、417町、1万3,000軒が焼失した「宝永の大火」
そしてもう一つは、その80年後の天明8年(1788)に、二条城や御所など1,400町、3万7,000軒が焼失した「天明の大火」である。
どちらの説も有力で、いまだにどちらの大火によってこの御門が開いたのか分からないのである。蛤御門の駒札にも、「江戸時代の大火で……」としか書かれてなく、どちらとも特定はしていないのである。

02弾痕mid
元治元年(1864)7月19日に、京都朝廷に長州が直訴しようとし、幕府・薩摩連合軍と武力衝突したのが「元治の変」と呼ばれる戦いである。
禁裏の御門で起きた戦ということで「禁門の変」とも呼ばれ、特に蛤御門での戦が激しかったことから「蛤御門の変」とも呼ばれている。
今も蛤御門には、弾痕の跡をはっきりと見ることが出来るのである。

03蛤御門mid
文久3年8月18日の政変で、京を追われた長州が朝廷での勢力を取り戻そうと、来島又兵衛、真木保臣らは上洛を主張し、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重論を唱えた。
そんな中、元治元年(1864)6月に池田屋で新選組に藩士が斬殺された報が届くと、一機に武力進発に傾くのである。
高杉や桂はそれを鎮めようと動くのだが、久坂はこれを好機と見、来嶋らに同調し、京への武力行使が認められ、京に向うことになる。
元治元年(1864)6月に長州を出発した、益田親施、久坂玄瑞らは山崎天王山に、国司親相、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原元僴は伏見長州屋敷に兵を集める。
7月19日に長州兵は御所西側の各門で戦端を開くのである。その始めの一撃が撃ち込まれたのが会津・桑名が守る「蛤御門」であり、ここで戦いの先端が開かれる。
来嶋らは越前藩が守る「中立売門」を突破するが、西郷隆盛率いる薩摩軍が援軍に駆け付けると形勢は逆転し、来嶋又兵衛は銃弾に倒れ、長州軍は壊滅する。

04御苑mid
真木和泉と久坂玄瑞はこれに遅れ、「中立売門」での来嶋の自刃を知りながら、「堺町門」を攻めるのだが突破できず鷹司邸に立て籠もるのだが、久坂玄瑞、寺島忠三郎らはここで自刃する。
久坂が後を託した入江九一も鷹司邸を出ると越前藩士に打ち取られてしまう。
戦は一方的に長州側の負け戦となり、長州屋敷に火を放ち国許へ敗走する。
これが京の町を焼き尽くしてしまう、「どんどん焼け」と云われ、天皇が東京に移った一因だとも云われている。
生き残った福原元僴・国司親相らは負傷者を収容、天王山で殿(しんがり)の益田親施も敗報を聞き撤退し、長州へと帰還した。
真木和泉は天王山に辿り着くも味方の影はなく隊を解散し、17名で天王山に立て籠もり壮絶な最期を迎えた。

蛤御門(京都市上京区烏丸通下長者町上ル)
京都駅から
▼京都市営地下鉄烏丸線で『丸太町』下車(所要7分)
「丸太町」から、北に徒歩12分