京都で祭りといえば、春の「葵祭」、夏の「祇園祭」と秋の「時代祭」である。
「葵祭」が上賀茂・下鴨神社の祭礼で、欽明天皇(539~571年)の時代に始まり、「祇園祭」は、八坂神社の祭礼で、貞観11年(869)に始まっている。
「時代祭」は、平安神宮の祭礼で葵祭や祇園祭と比べると、その歴史は浅く明治28年(1895)に始まっている。
時代祭は平安遷都、千百年を記念して、明治28年(1895)に始まり、今年で108回目となる。
時代祭は、維新勤皇党を先頭に、幕末維新の志士、江戸、室町、鎌倉、平安へと時代を遡り、全長2km、2千人がその行列に参加をしている。
京都御所の建礼門前を出て、烏丸通を南下、烏丸御池の交差点で左にまがり、河原町御池で、河原町通に入り、河原町三条で三条通を西に、神宮通を北上して、平安神宮へと向うのである。
時代祭には、3つの婦人列が登場する。
江戸時代婦人列(江戸時代)、中世婦人列(吉野時代)そして平安時代婦人列(藤原時代)である。
江戸時代婦人列は、和宮(孝明天皇の妹で、公武合体のため14代将軍徳川家茂に降嫁)・太田垣連月(女流歌人)・玉瀾(ぎょくらん:池太雅の妻)・中村内蔵助の妻・お梶(女流歌人)・吉野太夫(二代目の吉野で名妓)・出雲阿国(歌舞伎の創始者)らが登場する。
中世婦人列は、大原女(京の町への行商女)・桂女(桂川の鮎や飴を売り歩いた女)・淀君(秀吉の側室)・藤原為家の室(十六夜日記の著者)・静御前(義経の愛妾)らが登場する。
平安時代婦人列は、
巴御前:女武将として義仲と供に戦った側女で、義仲に従って出陣した鎧姿。
横笛:建礼門院の雑仕女で滝口時頼と恋に落ち、時頼を嵯峨に尋ねる旅姿。
常盤御前:源義朝の側室で、今若・乙若・牛若を連れ、六波羅に向かう姿。
清少納言:枕草子の著者で、女官の正装である十二単の姿。
紫式部:源氏物語の著者で、略装の小袿衣(こうちぎ)姿。
紀貫之の娘:袿(うちき)、単小袖(ひとえこそで)に濃紅の切袴を身につけた、未婚女性の姿。
小野小町:宮廷に仕えた才色兼備の女流歌人、当時の神像などを考証した女官の礼服姿。
和気広虫:和気清麻呂の姉で孤児院の起源をなした女性、孤児2名を従えた平服姿。
百済王明信:藤原継縄(つぐただ)の婦人、桓武天皇の信頼厚く女官の最高位の礼服姿。
が登場し、参列は京都五花街の芸妓さんが担当される。
清少納言と紫式部
清少納言が中宮定子(ていし)に仕えた正暦4年(993)頃は、定子の父・藤原道隆が摂政、関白となり、その子・伊周(これちか)が権中納言、内大臣となるなど隆盛を極めていた。
清少納言が中宮定子(ていし)に仕えた正暦4年(993)頃は、定子の父・藤原道隆が摂政、関白となり、その子・伊周(これちか)が権中納言、内大臣となるなど隆盛を極めていた。
しかし清少納言が出仕して2年後に藤原道隆が病没すると、政権は道隆の弟・藤原道長に移り、伊周や弟の隆家は左遷され定子の実家は没落し、まして道長の娘・彰子(しょうし)が一条天皇に入内すると、定子は長保2年(1000)一条天皇の第3子を生んでまもなく24才で亡くなるのである。
栄光と没落の変転を目の当たりにし、清少納言は宮中を去ってゆくのである。
清少納言が中宮定子に出仕したのは、定子18才、清少納言28才の頃であった。
定子が亡くなるまでの8年間を共に過ごし、互いの学問・教養の深さを認め合い信頼の絆で結ばれていた。
こんな二人の関係があったからこそ、「枕草子」が生まれたのであり、定子なくしては「枕草子」は誕生しなかったのである。
清少納言は、天元4年(981)「後撰集」の撰者、清原元輔の娘として生まれ、父の死や夫・橘則光と別れた後、28才で中宮定子に仕えるが、宮中を去った晩年は明らかでない。
才気渙発、男まさりで情に篤い性格だったが、美人とは云い難いようであった。
小倉百人一首に「世をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ」が収められている。







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