大仙院は大徳寺の塔頭であり、大徳寺には、市バス205・206系統で「大徳寺前」で降りるとすぐである。
大徳寺は大燈国師によって、正中2年(1325)に創建された、京でも一二を競う禅宗の寺院であり、建武元年(1334)には京都五山の上位に列せられたが、至徳3年(1386)足利幕府により五山から降ろされもする。
一休禅師や沢庵和尚など、数多の名僧を生むと共に、豊臣秀吉が天下を取ると、その庇護の下に発展し、臣下の大名も境内に搭頭を建立している。
天正10年(1582)に秀吉は大徳寺で信長の葬儀を行ったり、天正13年(1585)には大茶会を行っている。
また何と云っても茶の湯との関わりが深く、千利休などの茶人との関係もあり、一種、茶の湯サロン的な寺であったともいえる。
大徳寺を総門から入ると、
勅使門
切妻造、桧皮葺の四脚門で、桃山時代に建立されたと云われる御所の南門を、寛永17年(1640)に移築したものである。
山門
重層で五間三戸の左右に山廊が付いた造りとなっていて、享禄2年(1529)に下層のみが出来上がっていたものに、天正17年(1589)千利休によって上層部が造られた。
上層部には、鏡天井に長谷川等伯画の「竜の図」がり、「釈迦如来像」や「羅漢像」と共に、千利休が自身の木像を置いたことから秀吉の逆鱗に触れ、自刃に至ることになるのだが。
この門を潜る者は、利休の下を通るという、訳の判らない理由により、秀吉の怒りを買ったのだが、この頃の秀吉は、かっての覇気も気概もなく、天下人の器量も色褪せた時だったようである。
仏殿(本堂)
徹翁和尚の創建と伝えられており、享徳年間(1452~1454)に焼失し、再建されるも応仁の乱で再び灰燼にきし、現在の建物は寛文5年(1665)の再建になるものである。
仏殿は唐様建築で禅寺の特色がよく出ており、中に、釈迦像と大燈国師の像が安置されている。
法堂
寛永13年(1636)に小田原城主稲葉正勝の子、正則により建立された、重層、入母屋造、本瓦葺の建物である。
内部は、瓦敷、正面に壇があり天井の丸竜は狩野探幽の手になると云われている。
駒札には、
『臨済宗大徳寺派の大本山で、広い寺域に別院二ヶ寺と二十一の塔頭を有する。
鎌倉末期の正和(しょうわ)4年(1315)に、大燈国師(だいとうこくし:宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)により開創され、花園天皇と後醍醐天皇の厚い帰依を受けた。
室町時代には、幕府の保護を辞退して在野の禅院として独自の立場を貫いた。
応仁の乱で建造物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている四十七世住持の一休宗純が堺の豪商の保護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建物はほとんど整えられた。
三門・仏殿・法堂(はっとう)・経蔵・庫裏(以上いずれも重要文化財)・方丈(国宝)など、主要建物がすべて保存され、禅宗の典型的な伽藍配置を示している。
唐門(国宝)は聚楽第の遺構と伝えられており、豪華な彫刻に飾られた桃山時代の代表的建物である。
方丈の室内を飾る狩野探幽の襖絵(重要文化財)をはじめ、書画、古文書などの多くの寺宝を蔵する。
茶祖・村田珠光、千利休など多くの茶人の帰依を受け、茶道とのかかわりが深い。』
出典:【大徳寺の駒札】より
大仙院の本堂は永正6年(1509)の創立といわれ、室町時代における方丈造、書院造の実例である。
本堂の東にある庭園は、足利義政から贈られた名石をもって古岳宗亘(しゅうこう)が築いたといわれる典型的な枯山水である。
駒札には、
『大徳寺の塔頭の一つで、大徳寺北派の本庵である。
永正6年(1509)に六角近江守政頼の子・古嶽宗旦(大徳寺七十六世住職)を開祖として創建された。
本堂(方丈)は創建当時の建物で、内部の床の間と玄関は日本最古といわれ、方丈建築としても最も古い遺構の一つとして国宝に指定されている。
書院も入母屋造で重要文化財である。
相阿弥の山水画、狩野元信の四季花鳥図、狩野之信の四季耕作図(すべて重要文化財)など、襖絵は室町時代の名作障壁画として名高い。
庭園は、狭い庭に白砂と無数の岩石を配して、山と滝と渓流を見事に表しており、国の史跡及び特別名勝に指定されている。
歴代和尚には、千利休と懇意にしていた古渓宗陳和尚、紫衣事件で徳川幕府に一歩も退かなかった沢庵宗彭和尚がいる。』
出典:【大仙院の駒札】より
大徳寺(大仙院:京都市北区紫野大徳寺町53)
京都駅から
▼「A3」乗り場から206系統、または「B3」乗り場から205系統で『大徳寺前』下車(所要40~65分)
「大徳寺前」からすぐ
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