平家物語の冒頭に、
『祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。』
とあるように、沙羅双樹の花は「はかなき」ことの例えとされる。
妙心寺の塔頭である「東林院」は「沙羅双樹の寺」と呼ばれ、梅雨の頃に白い花を咲かし、今年(令和5年)も6月12日から27日まで「沙羅の花を愛でる会」が催された。

01沙羅双樹(1)mid
沙羅双樹はお釈迦さまが入滅された時に花開き、その死を悲しんだという。
祇園精舍の鐘の声や娑羅双樹の花の色など、形あるものは壊れ、美しいものも永遠ではない。
人間の命も限りがあり、お釈迦さまは「一日一日の今を大切に生きることの大切さを」を教えている。
沙羅の花も一日だけの命だが、その与えられた一日を精一杯咲いているのだと云う。
そのようなことを東林院の住職からのお話を聞かされながら、沙羅の花を愛でていた。

02沙羅双樹(2)mid
平家物語で云う沙羅双樹は日本で云う夏椿であり、本当の沙羅双樹は「沙羅の木」というインド原産の常緑樹である。
沙羅の木は、お釈迦さまが最期を迎えた時に、対になった沙羅の木の下に横たわったという。
お釈迦さまが入滅を迎えると、淡い黄色の花をつけていた2本の沙羅の木は枯れて、お釈迦さまが入滅するとその死を悲しみ、再び白い花を咲かせ、お釈迦様の上に散り覆いつくしたという。
2本の沙羅の木から「沙羅双樹」と呼ばれるようになったとも云う。
沙羅の木は仏教では三聖木の一つであり、三聖木は、
1.釈迦誕生「無憂樹(ムユウジュ)」
2.釈迦悟り「菩提樹(ボダイジュ)」
3.釈迦入滅「沙羅の木(サラノキ)」である。

03沙羅双樹(3)mid
日本で沙羅双樹と呼ばれる夏椿は、梅雨の頃に白い花を咲かせ、朝咲いて夕方に散る儚い花である。
日本には沙羅の木がなかったために、梅雨の季節に白い花を咲かせる夏椿を沙羅の木にみたてて寺院に植えたのだという。
平家物語に登場する沙羅双樹も一日ゆえの開花になぞらえて、盛者必衰を感じたのであろう。

04東林院mid
駒札には、
『享録4年(1531)細川氏綱が、父高国の菩提を弔うために建立のち、戦国武将で連歌の第一人者と言われ、秀吉、家康の二代にわたって重用された山名豊国により、妙心寺五十一世、直指和尚を開祖として弘治2年(1558)に再建された。、
本堂前庭には、十数本の沙羅双樹(夏椿)からなる「沙羅林」があり、境内にも沢山あることから「沙羅双樹の寺」とも呼ばれ、古来より茶人、歌人の「諸行無常」を感じさせると消され、花を咲かせる梅雨の季節に「沙羅の花を愛でる会」が催される。
書院庭園は、沙羅の世界と対をなす蓬莱の世界を現わし、水琴窟の音が禅味をかもし出しており、秋にはあかり瓦「梵燈」による夜間特別拝観「梵燈の あかりに親しむ会」も催される。
中庭は、「千両の庭」で、赤・黄の実をつける初春には「小豆粥の会・散飯式」が行われる。
また当院には精進料理が禅の修行の一つとして代々伝えられ、住職指導による「料理教室」も開かれており。宿泊者は自家菜園による住職手作りの精進料理が賞味できる。』
                           出典:【東林院の駒札】より

妙心寺(東林院:京都市右京区花園妙心寺町1)
京都駅から
▼「D3」乗り場から26系統で『妙心寺北門前』下車(所要41分)
「妙心寺北門前」からすぐ
▼JR嵯峨野線で『花園』下車(所要11分)
「花園」から、東に徒歩5分