京都駅から妙心寺には、市バス26系統に乗り「妙心寺北門前」で降り、北門から入るか、JR嵯峨野線で「花園」で降り、5分ほど歩いて南門から入るかの二つの方法がある。
花園の双ケ丘の東に、広大な寺域を持つ「妙心寺」がある。
臨済宗・妙心寺派の本山で、日本にある臨済宗寺院6,000寺のうちの3,500を妙心寺派で占めている。
妙心寺は、もとは清原左大臣の別荘であった所を、その後花園上皇が離宮としたものである。
花園上皇は深く禅宗に帰依し、延元2年(1337)にここを禅寺とした。
南門から入り、勅使門より北へ山門・仏殿・法堂・大方丈・庫裏が一直線に並び、その東側に浴室・鐘楼・経蔵が並ぶ。
そのほか40余りの塔頭が並び、通常公開されているのが「本坊(法堂と大庫裏)」「退蔵院」「大心院」「桂春院」である。
「山門」は、慶長4年(1599)の建立で、重層・入母屋造の本瓦葺で、楼上には、観世音菩薩、善財童子、月蓋長者、十六羅漢などが安置され、天井や柱には狩野権左衛門の筆になる龍や天人が描かれている。
「仏殿」は、天正12年(1584)の建立で、文政10年(1827)に改造され、禅寺にふさわしい唐様建築で重層・入母屋造の本瓦葺である。
「法堂」は、明暦3年(1657)の建立で、重層・入母屋造の本瓦葺で、天井には狩野探幽が描いた「雲龍図」があり、どの角度から見ても龍の眼にいすくめられ「八方にらみの龍」とも云われる。
駒札によると、
『正法山と号し、臨済宗妙心寺派の大本山である。
深く禅に帰依された花園法皇が関山慧玄(かんざんえげん)を開山とし、離宮萩原殿を改めて寺とされたのが当寺の起りで、室町初期に一時中断し再興後応仁の乱で再び焼失したが、乱後雪江宗深(せっこうそうしん)が再建、弟子にも名僧が出て寺運はさかんとなり、塔頭が相ついで建てられ、地方へも当寺の勢力は発展した。
現在末寺3,500余、臨済宗各派中最大である。
勅旨門より北へ三門・仏殿・法堂・寝堂・大方丈が一直線に並び、その東側に浴室・鐘楼・経蔵が並ぶ。
室町後期から江戸初期の建築で、近世禅宗伽藍の最も完備した形を示している。
大方丈の二面の庭園は清楚な名園である。
法堂内に収蔵されている鐘は黄鐘調(おうじきちょう)の鐘といわれ、698年の作、我国最古の在銘鐘で、形・音色にすぐれている。
寺宝には当寺の歴史に関する多くの文化財を蔵する。
また、塔頭は40余に達し、禅宗本山として堂々たる寺容をほこっている。』
出典:【妙心寺の駒札】より
三門の西にあって、妙心寺の塔頭の中で、天受院についで古い寺院である。ここには我が国の水墨画の祖といわれる如拙の「瓢鮎図(ひょうねんず)」があり、室町時代の水墨画の代表的傑作である。
図は川の中を泳ぐナマズ(鮎は、「アユ」ではなく「ナマズ」の意)と、ヒョウタンでそれを捕らえようとする男が描かれている。瓢箪でナマズをどうして捕えるかという禅問答に題材を求めたものであり、国宝に指定されている。
退蔵院も応仁の乱で妙心寺とともに炎上するが、亀年禅師によって再建をされる。
駒札には、
『越前(現在の福井県)の豪族波多野重通(はたのしげみち)が、妙心寺三世の無因禅師(むいんぜんじ)を開山として、応永2年(1395)に創建した妙心寺の塔頭である。
建物はその後再建され、現在の方丈(重要文化財)は慶長年間(1596~1615)の建築である。
方丈西の庭園(国の史跡及び名勝)は、室町時代の有名な画家狩野元信(かのうもとのぶ)の作庭と伝えられている。
200平方メートルほどの広さであるが、石組本位の枯山水庭園で、一見無造作に石や橋が配置されているようにみえるが、全体として見事に絵画的な調和を保っている名園である。
寺宝のうち瓢鮎図(ひょうねんず)一幅(国宝)は、瓢箪(ひょうたん)でなまずを押えるという禅の公案(こうあん:試験問題)を絵に表したもので、足利義持の命により如拙(じょせつ)が心血を注いで描いた最高傑作としてよく知られている。
如拙は相国寺の禅僧であったが、宋元図を学び日本の水墨画を開拓した先駆者で、雪舟もわが師と呼んで手本としたといわれている。
ほかに、花園天皇、後奈良天皇の宸翰(しんかん:重要文化財)などを蔵する。』
出典:【退蔵院の駒札】より
妙心寺(京都市右京区花園妙心寺町1)
京都駅から
▼「D3」乗り場から26系統で『妙心寺北門前』下車(所要41分)
「妙心寺北門前」からすぐ
▼JR嵯峨野線で『花園』下車(所要11分)
「花園」から、東に徒歩5分
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