康勝(こうしょう)は鎌倉時代の仏師で、運慶の四男で湛慶は兄である。
建久年間(1190~99年)に、東寺南大門「金剛力士像」と中門「二天像」の造立に兄弟たちと携わったことを始めとし、嘉禎3年(1237)以前に没するまで、京都・奈良の寺院の造像に関わっている。
現存する像として、東寺御影堂の「弘法大師坐像」や、六波羅蜜寺の口から六体の阿弥陀仏の像を吐き出している「空也上人立像」がある。
東寺は、平安京に移ってすぐの延暦15年(796)羅城門の東に左京の鎮護のために建てられたものを、弘仁14年(823)に、弘法大師(空海)が官寺として下賜され、名を教王護国寺と改めて真言宗の根本道場としたのである。
京の町の殆んどが焼き尽くされた応仁の乱では、東寺は難を逃れた。
これは弘法大師の威徳が人々の心に染み入っており、西軍東軍の兵もこの建物に手を掛けることが出来なかったといえる。
顕教における聖徳太子と、密教における弘法大師の二人は、仏教の教えを超えて日本人の心に住みついているといえる。
しかし、文明18年(1486)に起った土一揆は、東寺の堂塔伽藍を灰にしてしまったのだが、境内の西側にあった「大師堂」と「漣花門」は幸運にも焼けずに残ったのである。
境内の西北部「西院」と呼ばれる一画に、空海が住居としていた「御影堂(大師堂)」がある。
前堂、後堂、中門の3つの建物からなる仏堂で、入母屋造・檜皮葺(中門は切妻造)である。
創建時の大師堂は康歴元年(1379)に焼失するが、翌年に後堂が再建され、明徳元年(1390)に北側に前堂、その西側に中門が増築される。
この建物も応仁の乱の災禍に遭わず今にその姿を留めている。
『創建年代は未詳。弘法大師御在世中の住坊で西院とも呼ばれる。
天福元年(1233)仏師康勝法眼が斎戒沐浴して、一刀三拝毎に「南無大師遍照金剛」と唱えつつ彫刻した大師像と、南面不動堂には大師の念持仏の国宝不動明王(秘仏)が安置され、毎月21日は沢山の参拝者で賑わう。』
出典:【国宝 大師堂(御影堂)の説明文】より
「弘法大師坐像」は御影堂の本尊で、左手膝上で掌を仰ぎ念珠(数珠)を、右手屈臂(くっぴ:肘を曲げること)して胸前で五鈷杵(ごこしょ:金剛杖の両端が五つに分かれているもの)を執り、椅子に坐すいわゆる真如親王様(しんにょしんのうよう:高野山で大師が入定する際に弟子の真如親王が描いた様式)の弘法大師像である。
鴨川に架かる松原橋を渡り東山の清水さんへと続く道を6分ほど歩くと、「六道之辻」と刻まれた石碑が建つ。
この辻が鳥辺野の入口で、冥府の辻、今世と来世の迷い道「六道の辻」である。
そこから南に100mの所に六波羅蜜寺がある。
この寺は、空也上人が天暦5年(951)に、十一面観音像を造り本尊と祀った、念仏道場に由来すると共に、また応和3年(963)に般若心経を唱え、この寺を大々的に盛大にしたのが六波羅蜜寺の起こりとされている。
今ではその規模も随分と小さくなってしまったのだが、往時は見るも艶やかな堂塔伽藍が建ち並んでいた。
しかし寿永2年(1183)、平家が都落ちの時に六波羅邸に火をかけた類焼により、諸堂の殆どが焼け落ちてしまうのだが、奇跡的に本堂のみが類焼を免れる。
その後、南北朝時代の貞治2年(1363)に本堂が修営される。
寄棟造・本瓦葺きで、外陣を板敷きとして、蔀度で仕切られた内陣を一段低い四半敷き土間とする天台式建築である。
応仁の乱にも焼けず、今にその姿を留めている。
この寺では、教科書にものっている、空也上人の像があり、口から六つの像を出しているのだが、南無阿弥陀仏の六文字を表していて、南無阿弥陀仏と唱えることによって、衆生救われるという六斎念仏が今に伝えられる。
「空也上人立像」は、首から鉦を吊るし、叩きながら左手に鹿角杖(ろっかくつえ:鹿の角を上端につけた杖)を持ち歩く姿である。
頬がこけた痩身の体つきは、念仏を勧めて市中を歩いた上人の姿を彷彿とさせる。
開いた口から木造の六体の小さな阿弥陀仏が現れ出るさまは、空也上人が「南無阿弥陀仏」を唱えると、その声が阿弥陀如来の姿に変わったとする伝承を具体化したものであるという。
東寺御影堂(京都市南区九条町一番地)
京都駅から
▼「B3」乗り場から208系統で『東寺南門前』下車(所要24分)
「東寺南門前」からすぐ
▼京都駅八条口より徒歩15分
▼近鉄京都線「東寺駅」より徒歩10分
六波羅蜜寺(京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町(ろくろちょう)
京都駅から
▼「D2」乗り場から86・206系統で『清水道』下車(所要17分)
「清水道」から、西に徒歩7分
コメント
コメント一覧 (1)
youhobito
が
しました