祇園祭は、八坂神社の祭礼で、明治までは祇園御霊会と呼ばれ、貞観(じょうがん:9世紀)年間より続き、葵祭、時代祭とともに京都の三大祭の一つである。
貞観11年(869)に疫病が流行したときに日本の国の数に準じ、長さ6mの鉾66本を神泉苑に設置された「祇園社」に立て、疫病退散を祈ったといい、これを祇園御霊会といって、祇園祭の起源だという。
祇園祭は、7月1日から29日まで行われ、7月10日(前祭)に「神輿洗」があり、八坂神社から神輿が四条大橋の中央まで進み、神官がサカキを鴨川の水に浸して神輿に注ぎ清める。(後祭は7月28日)
祇園祭の見どころは山鉾巡行であり、前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)とに分けられる。
(昭和41年(1966)から行われなくなった後祭を、平成26年(2014)の巡行から復活させ、前祭の23基と後祭の10基に分かれ、宵山や巡行を別日程で行うことになった。)
山鉾行事は、宵々々山・宵々山・宵山(前祭:7月14日~16日・後祭:7月21日~23日)から始まり、家々の軒には、神灯を掲げ、青簾をかけ、旧家では秘蔵の屏風を立てまわし、由緒ある毛氈(もうせん)や花を生けて室内を飾り、山鉾には万灯を点け、織物刺繍などで壮麗を誇っている。
前祭:7月17日・後祭:7月24日には、山鉾巡行が行われる。
長刀鉾は毎年巡行の先頭を行き、生稚児を乗せる唯一の鉾で、各氏子町で披露される稚児舞と、四条麩屋町での注連縄切りが見もの。
鉾先の大長刀は御所と社頭を避けて、東と北に向けずに南を向く。
祇園祭の山鉾巡行はこの長刀鉾が動きだすのを合図に山と鉾が動き出すのである。
四条烏丸東入ル長刀鉾町にある鉾で、鉾先の長刀は昔は三条小鍛冶宗近作のものを用いたが、今はこれを秘蔵して三条長吉作が使われたが、現在はその複製品が使われている。
鉾頭の人形は宗近の長刀に縁故がある和泉小次郎親衡の像で、直衣大口(のおしおおぐち)を着け、侍烏帽子を頂き、左手に舟をさし上げ、右手に長刀を持っている。
信濃国の人で大力だということになっている。
屋根裏の群鳥の彩画は、この町に住んでいた松村景文筆で、破風の彫刻は片岡友輔。
前人形は振鉾舞、後人形は宗近が長刀を鍛える形。
各部の金具はいずれも精巧な彫刻である。
水引のキリンは江戸初期の刺繍で、二番水引八珍菓の図は中島華陽の下絵、胴懸は古渡の華氈、前懸は殊にすぐれている。
見送りは中国明時代の竜文の紅地鏤金綴錦で最も逸品であるといわれている。
参照:【最新旅行案内京都】より
駒札には、
『鉾先の大長刀が名前の由来の由来である。
長刀は疫病邪悪をはらうものとして、もとは三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)の作が用いられていたが、現在は大永2年(1522)三条長吉作の長刀を保存し、複製品を鉾頭とする。
古来よりこの鉾は「くじとらず」と称され毎年必ず巡行の先頭にたつ。
また生稚児(いきちご)の乗る鉾は今では長刀鉾のみである。
真木(しんぎ)のなかほどの「天王座」には和泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)の人形を祀る。
屋根裏の金地著彩群鳥図(きんじちゃくさいぐんちょうず)は松村景文(まつむらけいぶん:1778~1843)の筆、破風蟇又(はふかえるまた)の厭舞(えんぶ)と小鍛冶宗近が神剣を造る姿の木彫胡粉彩色(もくちょうこふんさいしき)の彫刻は片岡友輔の作である。
前掛はペルシャ花文様絨毯、胴懸にはモンゴルを含む中国近辺で製織された玉取獅子図絨毯、十華図絨毯、梅樹図絨毯など、16世紀の希少な絨毯が用いられていたが、現在はその復元新調品。
見送は雲龍波濤文様綴織、下水引の五彩雲麒麟図刺繍の図も復元新調品を使用。
旧懸装品として梅枝に鵲(かささぎ)の図朝鮮毛綴やペルシャ絹絨毯(17世紀)も大切に保存されている。』
出典:【長刀鉾の駒札】より
ちなみに籤(くじ)取らずの山鉾は、前(さき)の巡行では先頭(1)長刀鉾、(5)函谷鉾、(21)放下鉾、(22)岩戸山、(23)船鉾、
後(あと)の巡行では先頭(24)北観音山、(25)橋弁慶山、(32)南観音山である。
長刀鉾(京都市下京区四条烏丸東入ル長刀鉾町)
京都駅から
▼「A1」乗り場から5統または「D3」乗り場から26系統で『四条烏丸』下車(所要11分)
「四条烏丸」から、徒歩3分
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