上賀茂神社と下鴨神社は「かも」の文字が違うのだが、この二社は、上・下で対をなす神社である。
それが証拠に、5月15日に行われる「葵祭」は、この両社の大祭なのである。

01楼門mid
下鴨神社は、賀茂川の下流に祀られていることから「鴨」の文字をあて、下鴨神社と呼ばれるのだが、これは通称で正式には「賀茂御祖神社」(かもみおやじんじゃ)と云う。
山城国一ノ宮で起源は古く、日本書紀神武天皇2年(BC658頃)の条にこの神社のことが記されている。
その昔、この地を治めた賀茂氏が創祀したと云われ、平安以前から存在する京都で最も古い神社である。
上賀茂神社とともに、平安京のできたころには、皇居の鎮護として崇敬されていた。
祭神は、東御本殿に「玉依媛命」(たまよりひめのみこと)、西御本殿に「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと:玉依媛の父)で、玉依媛が瀬見の小川の上流から流れてきた丹塗りの矢により身ごもり、上賀茂神社の祭神である「別雷神」を生んだということから、その母にあり御祖(みおや)と呼ばれ、この神社が「賀茂御祖神社」と云われるようになったのである。

02中門mid
賀茂川と鞍馬の八瀬から流れてくる高野川との合流点を河合といい、その南に賀茂大橋、合流地点上流の賀茂川に葵橋、高野川に河合橋が架かっていて、葵橋を渡りると一の鳥居となり、さらに参道を進むと楼門となる。
門を入ると舞殿、その左に神服殿、右に細殿・橋殿があり、その先に中門があり、その内に幣殿・祝詞舎が、その奥に本殿がある。
本殿は文久3年(1863)の改築で、その他の社殿は寛永5年(1628)の再建になり、よく古制を伝えていて、多くは檜皮葺、丹塗りの建物である。
                         参照:【最新旅行案内 京都】より

03井上社mid
葵祭は賀茂祭とも言われ、上賀茂神社・下鴨神社で行われる例祭である。
今から1,400年前の欽明天皇の頃から始まるという。
石清水祭、春日祭と共に三勅祭といわれ、平安時代以来国家行事として行われ、古くから優美な祭として名高く、平安時代で祭といえば「葵祭」のことであった。
葵祭の見どころは5月15日に行われる、平安時代の王朝風俗に身を包んで行列する「路頭の儀」で、勅使代をはじめ検非違使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎王代など、馬36頭、牛4頭、500余名の行列が、京都御所建礼門前より出発し、堺町御門-河原町広小路-河原町通-葵橋西詰-下鴨神社-下鴨通-北大路通-北大路橋-賀茂川堤-上賀茂神社までを進む。
祭の名は、御所車、勅使、供奉者の衣冠などを葵の葉で飾ったことに由来している。
葵祭は源氏物語の中にもみえ、葵祭の斎王列を見ようと、光源氏の妻「葵の上」と「六条御息所」の間で車争いが行われた場面が登場する。

04糺の森mid
糺の森は、下鴨神社の境内にある社叢林(しゃそうりん)、いわゆる鎮守の森である。
思うに、糺の森は、下鴨神社が出来る以前からの原生林であり、その森を切り拓いて下鴨神社が造られたのではないだろうかと、推察するのである。
糺の森は12万4千平方メートルで、東京ドームの3倍の広さであるのだが、昔はもっと広かったようで、今の40倍の面積だったという。
応仁の乱などの戦乱での焼失や、明治の廃仏稀釈などで減少を余儀なくされ、現在の広さになったという。
鬱蒼と木々が繁る「糺の森」の由来は、
下鴨神社の祭神、賀茂建角身命が、この森で人々の訴えを聞き正邪を裁いたと云われ、これから「糺す」という名が付いたとも、賀茂川と高野川との合流した中洲から「只洲」、または、清水の湧き出ることから「直澄」、秦氏と賀茂氏とのつながりから、蚕の社にある元糺の池に因んだとも云われている。

05流鏑馬mid
この糺の森で5月3日に行われるのが「流鏑馬神事」である。
公家や武士風の狩装束に身を包んだ射手が、失踪する馬上から3つの的を射抜く行事で、五穀豊穣、所願成就を祈願して矢を射て、的に当たれば願いが叶うというものである。
因みに、上賀茂神社では「競馬会神事」が行われる。
余談だが、葵祭は明治維新の混乱で明治3年から廃止されていたのを、明治17年に岩倉具視が復活をする。

下鴨神社(京都市左京区下鴨泉川町59)
京都駅から
▼「A2」乗り場から4・205統で『糺の森前』または『下鴨神社前』下車(所要29~30分)
 「糺の森前」または「下鴨神社前」から、徒歩5分