土佐藩邸跡の横の蛸薬師橋を渡り、高瀬川の西岸にある西木屋町通を北に歩くと、山崎橋のたもとに「彦根藩邸跡」の石碑が建っている。

01彦根藩邸跡(1)mid
茂山千五郎家は、江戸時代に大和猿楽の狂言を伝える大蔵流を継承していたが、その名を世に出さしめたのが、幕末の9世茂山千五郎正虎の代である。
天保元年(1830)に井伊藩彦根城で能会が開かれた折り、お抱え狂言師の小川吉五郎が上演中に斃れ、急遽20才の茂山千五郎が代役を務め、これが当時の彦根藩主・井伊直弼に認められるのである。

02彦根屋敷跡(2)mid
彦根藩は徳川譜代の大名で、関ヶ原での勲功により井伊直政が石田三成の居城、佐和山城に入ったことに始まる。
以降、一度も転封されることなく、初代直政から十六代直憲まで彦根を治め明治維新を向えている。
井伊家でその名が知られているのが、初代井伊直政と十五代井伊直弼である。
直政は関ヶ原の合戦で勇猛を馳せた人物で、大坂夏・冬の陣でも徳川方の先陣を努め、武勇に聞こえた人物である。
もう一人は井伊直弼で、安政5年(1858)幕府の大老職に就くと、昔日の強い幕府を取り戻そうと、独断専行の政を行い反対派の大名を処罪し、勤皇の志士達の活動を封じるために、弾圧を強力に推し進めてゆく。
これが安政の大獄といわれるもので、これらの舞台の多くが京であり、その4年前の嘉永7年(1854)4月に直弼が、北は大黒町、南は山崎町に至る辺りに屋敷を構え彦根藩の京屋敷としたのがこの辺りである。
井伊直弼は、万延元年(1860)3月3日、雪の中を登城中、桜田門外にて、薩摩藩士有村次佐衛門や水戸藩士関鉄之助、斉藤監物ら18名により襲われ慙死するのである。
以降、彦根藩は勤皇に傾いていき、鳥羽伏見の戦いで譜代の彦根藩は薩長側についてしまい、幕府軍の打撃は大きいものがあり敗因の一つともなったのである。

03山崎橋mid
9世茂山千五郎正虎が明治18年(1886)に亡くなると、三男の正重が10世茂山千五郎を継ぐことになる。
この正重の時に茂山千五郎正家の家訓ともいえる「お豆腐主義」が確立されるのである。
茂山千五郎家の「お豆腐のような狂言師」という意味合いは、正重は親しみやすい狂言を目指し、気軽に狂言を楽しんで頂こうと、どのような小さな集会にでも気軽に出向いて狂言を上演した。
明治の時代「能と狂言」は、まだ特別階級の文化であり舞台以外での上演は禁止され、共演はもってのほかという保守的な考えであった。
そんな中、正重に対し「茂山の狂言は芸能文化ではなく、どこの家の食卓にも上がる豆腐のようなものである」と言われたが、「お豆腐は味つけによって高級にもなれば、庶民の味にもなる。お豆腐のようにどんな所でも気軽に呼ばれ、喜んでいただける狂言を演じればよい。より美味しいお豆腐になるよう努力すればよい。」と言ったという。
以来、これが茂山千五郎家の家訓となるのである。

彦根藩邸跡(京都市中京区木屋町通三条下る二筋目・山崎橋西詰)
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統または「A2」乗り場から205系統または「D2」乗り場から86系統で『河原町三条』下車(所要17~20分)
 「河原町三条」から、徒歩2分