京都駅から、D2乗り場から208系統のバスに乗り、「今熊野」で降りる。
そこから歩いて3分のところに、平清盛の後白河法皇への忠誠心から造営したという「新熊野(いまくまの)神社」がある。
新熊野神社は、平安後期の永暦元年(1160)に、後白河上皇が紀州熊野神社の神を、この地にあった仙洞御所法住寺殿の内に勧請したことに始まると云う。
また上皇の命を受けた平清盛は、熊野の砂や木々を用い社域や社殿を築き、那智の浜の青白の小石を敷いて、霊地熊野を再現したとされる。
当時は熊野信仰が盛んであり、天皇や上皇、公家などが紀州の熊野神社に詣でることが一大ブームであった。
この神社を「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州熊野神社に対し、京に創った新しい今の熊野神社という所から「いまくまの」と呼ばれるようになったのだと云う。
駒札によれば、
『熊野信仰が盛んであった平安後期の永暦元年(1160)、後白河上皇が紀州(現在の和歌山県)熊野の神をこの地にあった仙洞御所法住寺殿の内に勧請して、当社を創建した。
上皇の命を受けた平清盛は、熊野の土砂や材木を用いて社域や社殿を築き、那智の浜の青白の小石を敷いて霊地熊野を再現したとされる。
皇室の尊崇が厚く、社域は広壮、社殿は荘厳を極めたが、応仁の乱で荒廃し、現本殿は寛文13年(1673)に聖護院の通寛親王(後水尾天皇の皇子)により再建されたものである。
境内の樟の木は、熊野から移植した後白河上皇お手植えの神木といわれ、健康長寿、特に腹を守護する神、また、安産の守り神として信仰されている。
足利義満が初めて観阿弥・世阿弥父子の能を見た場所としても知られている。』
出典:【新熊野神社の駒札】より
この地は、能楽隆昌、機縁の地とされ、能楽の大成者・世阿弥が若い頃の文中3年(1374)に、ここで父と共に、大和の猿楽結崎座を率い勧進興業を行い、見物していた室町幕府3代将軍・足利義満がいたく感嘆し、父を観阿弥、子を世阿弥と名乗らせたと云う。
これを機に世阿弥は猿楽の芸を高め、今日の能楽の隆昌をもたらしたという、能楽ゆかりの地である。
駒札には、
『当地は能楽の大成者世阿弥が、まだ藤若丸と称していた文中3年(1374)のころ父の観世青次と共に大和の猿楽結崎座を率い勧進興業を行なったところで、世に「今熊野勧進猿楽」と呼ばれ、見物していた室町幕府第三代将軍義満が、その至芸に感激、二人を同明衆に加え、父子をそれぞれ観阿弥・世阿弥と名乗らせた機縁の地である。
時の将軍の援助をうけた世阿弥は父の志をつぎ後顧の憂いまく猿楽の芸術性を高めるため日夜、研究努力を重ね、これを今日の能楽に大成させた。』
出典:【能楽大成、機縁の地の駒札】より
新熊野神社の境内には、「能」と刻まれた石碑が建っているのだが、この文字は花鏡の中で世阿弥が書いたというもので、あまりの達筆ゆえに読むことが出来ない。
その横の碑文には、
『王朝の昔から神事や後宴の法楽に演ぜられた猿楽は、大和結崎座の大夫観阿弥とその子世阿弥によって今日傳統藝術として親しまれる能にまで仕上げられた。
その端緒となった時は、今から六百余年前の應安七年(1374)場所はここ今熊野の社頭であった。
古く八百二十年前、永暦元年(1160)後白河上皇が御願をもって紀伊熊野の森嚴(しんげん:おごそかな)なたたずまいを移されたこの地で、猿楽能を見物した青年将軍足利義満は當時十二歳の世阿弥の舞容に感銘した。
そして世阿弥を通して能の大成を後援し、ついに幕府の式楽として採用したのである。
現代の能の隆盛につけても、その日のあでやかな世阿弥の風姿を知る老樟の下に往時を追懐し、今熊野猿楽の復興を志す人々が一碑を建立して、この史実を記念することになった。
ここに請われるまま碑銘の文字を世阿弥自筆本花鏡のなかゝら撰ぶとともに、その由來を録して社頭の繁榮と能の發展を併せ祈願するしだいである。』
出典:【能石碑の碑文】より
新熊野神社(京都市東山区今熊野椥ノ森町42)
京都駅から
▼「D2」乗り場から88・208系統で『今熊野』下車(所要13分)
「今熊野」から、徒歩3分
コメント
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拍手です。
youhobito
が
しました