七条通を東に、東大路通にあたると、そこに「智積院」がある。
東大路通と七条通が交差する三叉路に面して、東福門院の旧殿の門を移築した、智積院の総門が建つ。
東山七条の交差点は、京都駅から七条通を通り、清水寺や祇園へと行く市バス206系統)が、ここで左に曲がり北へと向っていく。
また東寺や九条を通る、循環バスの「202」「207」系統がこの総門の前を通り、清水寺や祇園に向うなど、この交差点は結構、車の往来が激しい所なのである。
もとは豊臣秀吉が、3歳で亡くなった鶴松の菩提を弔うために、天正19年(1591)に建てた祥雲寺の跡に、徳川家康が紀州根来の学頭智積院の名を移して再興したもので、真言宗智山派総本山の寺院である。
七条通の東端に、智積院の総門(東福門院の旧殿の門を移築したものといわれる)があり、その先には、大書院・開山堂・鐘楼(以上寛政7年(1667)の再建)があり、大師堂(寛政元年(1789)の再建)・講堂(貞享2年(1685)の再建)・金堂(明治15年焼失し、その後再建)などがある。
智積院には、長谷川等伯が描いた襖図が国宝に指定されているのだが、これらは祥雲寺の客殿を飾っていたものである。
しかし、この客殿は天和2年(1682)に火災で全焼するが、幸いにも襖図の大半は助け出されている。
その後、昭和22年(1947)にも火災にあい、襖図の16面を焼失してしまう。
現在は京都国立博物館に寄託されその豪華華麗な絵図を見ることができるのである。
駒札には、
『真言宗智山派の総本山で全国に3000余の末寺がある。
もと紀州根来山の学頭寺智積院であったが、豊臣秀吉の焼き討ちに遭い、学頭玄宥(げんゆう)僧正は、難を京都に避け、後に徳川家康の帰依を受けて慶長6年(1601)に豊国神社境内の坊社と土地を与えられ、智積院を再興した。
その後、祥雲禅寺を拝領し現在に至っている。
祥雲寺は、秀吉が長男鶴丸(棄丸(すてまる))の菩提を弔うため建立した寺で、当時は東山第一といわれた。
収蔵庫にある豪華な襖絵(国宝)は祥雲寺以来のもので、長谷川等伯の筆といわれ、桃山時代の代表的障壁画として知られている。
このほか、張即之筆金剛経(国宝)、南画の祖といわれる王維の瀧図(重要文化財)をはじめ、仏画・経巻など多数の指定文化財を蔵している。
庭園(名勝)も同じく桃山時代の作庭といわれ、築山と苑池からなる観賞式林泉で京洛名園の一つに数えられている。』
出典:【智積院の駒札】より
智積院には、長谷川等伯と長男久蔵が描いた「桜楓図(おうふうず)」の襖絵が残る。
長谷川等伯は、天文8年(1539)に能登国・七尾の下級武士の家に生まれ、仏画や肖像画を描いていたが、京に登り狩野派や雪舟らの水墨画を習得する。
千利休や豊臣秀吉らに重用され、金碧障壁画と水墨画で独自の画風を確立し、狩野派を脅かす絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派を確立する。
長男久蔵は等伯を越える絵師と期待されるが26才で亡くなってしむ。
桜楓図は久蔵が桜の大木を描き、久蔵が亡くなると等伯が楓の古木を描き上げたという、父子合作になる襖絵なのである。
晩年には「雪舟五代」と称し、慶長15年(1610)江戸で没している。
智積院(京都市東山区東瓦町964)
京都駅から
▼「D2」乗り場から87・88・206・208系統で『東山七條』下車(所要11分)
「東山七條」から、徒歩3分
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