バスを「銀閣寺道」で降り、東に4分をど歩くと銀閣寺がある。
文明12年(1480)室町8代将軍・足利義政は、東山に二層の東山殿を建て庭園を造り、3代将軍・足利義満の金閣にならって銀閣としようとするのだが、延徳2年(1490)その完成を待たずに亡くなった。
義政を弔うために東山殿を寺院とすべく、夢窓疎石を開山として義政の法号慈照院殿にちなんで慈照寺が創建された。
慈照寺は東求堂・西指庵(蹴鞠の遊所)・和漢御会所(学問所)・集芳廊・吟月楼(大書院)・安寧亭(紅葉殿)・弄清亭(ろうせいてい:泉殿)・夜泊船(船屋)・竜背橋(橋亭)・超然亭(大玄関)・洗塵閣(浴室)・銀閣の十二楼があったというが、天文の兵乱
により、諸堂や義政愛玩の名宝はすべて焼けてしまい、今には銀閣と東求堂が残るのみとなっている。
(天文の兵乱とは、天文5年(1536)に延暦寺の衆徒が京の法華一揆の撃滅に乗り出し、日蓮宗の21の寺院を焼いたという天文法華の乱で、このときの大火により京の都は応仁の乱に勝るとも劣らない被害を受けた。)
慈照寺(銀閣寺)の駒札には、
『東山(とうざん)慈照寺と号する臨済宗相国寺派の寺で、足利義政公の隠居所「東山殿」を遺命によって寺としたものである、
平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。
東山殿は、文明14年(1482)から建設が始まり、東山文化の粋を尽くした数々の仏殿、住宅や庭園が造られた。
しかし、永録元年(1558)の兵火により観音殿(銀閣)と東求堂(ともに国宝)を残して建物が焼失し、元和元年(1615)に現在の寺観が整えられた。
銀閣は、延徳元年(1489)建立の柿葺(こけらぶき)二層建てで、下層は心空殿と呼ばれる書院造の住宅、上層は観音像を安置する潮音閣と呼ばれる禅宗様仏殿となっている。
実際には銀箔は貼られなかったが、北山鹿苑寺の金閣に対し、一般に銀閣と呼ばれている。
金閣に比べて枯淡幽雅な特色が見られ、東山文化を代表する名建築である。
東求堂は、文明18年(1486)建立の義政公の持仏堂で、日常生活のための住宅の遺構としては最古のものといわれ、内部には仏間や同仁斎(どうじんさい)などがある。
同仁斎は茶室の原型・源流ともいわれるが、元来は書斎である。
庭園(国の特別史跡及び特別名勝)は、西芳寺(苔寺)の庭園を模して義政公が作ったものといわれ、上段石組(いわぐみ)、下段池泉回遊式の二段から成り、銀閣とよく調和した名園である。』
出典:【慈照寺(銀閣寺)の駒札】より
方丈の東にあり、庭園をはさんで銀閣に相対している「東求堂」。
足利義政生前の持仏堂で、文明18年(1486)に建立されている。
大きさは、桁行前面五間、後面四間、梁間三間、単層、入母屋造柿葺の瀟洒な建物である。正面に義政の木像が安置され、右奥に義政の創意で最初の茶室と云われる同仁斎と呼ばれる書斎があり、四畳半茶室の起源とも云われている。
この建物も銀閣と同じく、国宝に指定されている。
東求堂は当初はもう少し銀閣寄りの現在「向月台」と呼ぶ盛砂のあるあたりに建っていたと推測されている
銀閣を造った足利義政は、室町幕府8代将軍で、8才で将軍職に付き成人した当初は政治に積極的に関与したが、側近の力があまりのも強く、意のままにならず段々と政治から離れ、詫び寂びの世界へと逃避する。
この人の正室が日本一の悪妻といわれた日野富子であり、後継者問題で応仁の乱が起り、京の町は灰燼に帰してしまう。
応仁の乱は、応仁元年(1467)に始まり、西軍・山名宗全と東軍・細川勝元が死去したことにより、11年後の文明9年(1477)に終わる。銀閣はさらにその5年後の文明14年(1482)に発願されることになる。
足利義政は政治に関与することなく、銀閣の建築や庭園造りといった趣味の世界に没頭し、善阿弥や狩野正信、音阿弥などの芸術家を召抱え、東山の地に一大文化を花開かせたのである。
この文化を、3代将軍義満の頃の華やかな北山文化と比べ、詫び寂びの枯淡美を主とした、東山文化と呼ばれている。
銀閣寺(京都市左京区銀閣寺町2)
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統または「A2」乗り場から17系統で『銀閣寺道』下車(所要40~34分)
「銀閣寺道」から、徒歩4分
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