京都バス「苔寺」から西芳寺川に沿って上流に少し歩くと、臨済宗天竜寺派の洪隠山西芳寺がある。
西芳寺というよりも「苔寺」と云ったほうが良く知られた名であろう。
苔寺は平成6年に世界文化遺産に登録された寺院で、もっと観光客で埋め尽くされていても良いのだが、今は事前に申し込まないと拝観することが出来ないのである。
また拝観というのではなく、写経や法話、座禅といった宗教行事に参加するというのが主旨であり、庭園だけを拝観するということは出来なく、一般人には敷居の高い寺院となってしまったのである。
勿論団体にろる拝観などはなく、昔は観光客でひしめいていたこの辺りも今はひっそりと静まりかえっているのである。
これは地元の住民が観光公害に悩まされ、色々な手段を講じたが観光公害は収まらず、ついに西芳寺が拝観を停止し、事前申込という形を取らざるを得なくなり、昭和59年7月に、それに踏切ったのである。
表の扉は閉じられたままで、訪れる人も殆ど無くなってしまった西芳寺、苔寺である。
駒札には、
『山号を洪隠山(こういんざん)といい、臨済宗に属する。平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。
奈良時代、聖武天皇の詔により行基が開山した古刹で、平安時代初期には弘法大師が一時住し、鎌倉初期には法然上人が中興して、淨土信仰の道場としたと伝えられている。
兵乱での荒廃の後、暦応2年(1339)に後醍醐天皇、足利尊氏の深い帰依をうけた夢窓国師(疎石)により再建され、禅の厳しい修行の道場となった。夢窓国師みずから作庭した枯山水石組の上段の庭と、心の字を形どる黄金池を中心とした池泉廻遊式の下段の庭からなる庭園は、当時すでに天下の名園として名高く、足利義満をはじめ、ここを訪れて坐禅にはげんだ人も多い。
現在、三万五千平方メートルに達する庭園(国の特別名勝および史跡)は、よく昔のおもかげを伝える名庭とうたわれている。百二十余種の青苔に一面が覆われ、広く「苔寺」の名で親しまれている。
また茶室湘南亭は、千利休の二男少庵が桃山時代に建築したもので、明治維新の際岩倉具視が一時隠棲したこともある。
禅寺の苔をついばむ小鳥かな 虚子』
出典:【西芳寺(苔寺)の駒札】より
奈良時代の天平3年(731)、聖徳太子の別荘跡に行基が開いたものと伝えられる。
暦応2年(1339)に、足利尊氏が尊崇し夢窓疎石により中興され、西芳寺と名付けられる。
庭園もその時に夢窓疎石により作庭され、渓谷の地に黄金池を掘り、池中に三つの島を築き、丘地には岩を畳み、石を敷き樹木を多く配した池泉式回遊庭園となっている。
当初は苔などなく、苔が覆い出したのは近世になってからだと言う。
当初は無かった苔は自然発生的に生えたのだというのだが、実は洪水が原因ではないかと言われている。
寺の側を西芳寺川が流れており、室町時代の文明17年(1485)に、下って江戸時代の寛永年間(1624~44)や元禄年間(1688~1704)に、洪水があったことが記録にあり、これが庭を湿らせることによって、苔が発生したのではないかと推測されている。
この苔により、夢窓疎石の作った庭の姿は失われたが、庭一面を絨毯のように覆った苔の景色から「苔寺」と呼ばれるようになる。
夢窓疎石は、建治元年(1275)伊勢国(三重県)に生まれ、幼い時に一族の争いで甲府(山梨県)に移っている。
8才で甲斐国の天台宗の寺院に弟子入りし以降修行を重ね、ある日、中国の禅僧・疎山光仁(そざんこうにん)と石頭希遷(せきとうきせん)に禅寺へと導かれる夢を見て、禅宗の修行を始めることになる。
この夢に現れた二人の名から「疎石」と名乗るようになる。
以降さらに修行を重ね、寺の開基や再興をすると同時に、庭作りも手掛けるようになり、全国に疎石が作庭した庭園があるのだが、京都では「西芳寺」と「天龍寺」の庭園が有名である。
夢窓疎石により西芳寺が再興されたのが暦応2年(1339)で、庭園も同時に作られている。
庭園は上段と下段があり、上段は枯山水、下段は池泉式回遊の庭園で、一面「苔」で覆われていることから「苔寺」と呼ばれている。
庭園は極楽浄土が表現されていて、下段が極楽、上段が地獄を表しているという。
また天龍寺は、後醍醐天皇を弔うために、足利尊氏が夢窓疎石を開基として創建した寺である。
天龍寺庭園は「曹源池庭園」と名付けられ、嵐山を借景とした庭園となっている。
西芳寺(京都市西京区松尾神ケ谷町56)
京都駅から
▼「C6」乗り場から、京都バス73系統で『苔寺・すず虫寺』下車(所要60分)
「苔寺・すず虫寺」から、徒歩3分
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