西国三十三所巡りの十六番札所で、京都を訪れた人は必ず清水寺に詣でるといっても差支えないほどよく知られた寺である。

01清水mid
清水寺は平安京以前からこの地にあったといわれ、宝亀9年(778)大和国高市郡の子嶋寺(南観音寺)の僧・延鎮が、お告げにより霊泉を求め、音羽山中腹の霊水が湧く所に来ると、白衣の老人が修行をしていた。
老人は延鎮に「この木で観音像を造りお堂に祀れ」と告げた。
延鎮はその老人が観音様の化身と知ると、霊木に観音像を彫り堂宇に安置したのが、清水寺の起源だという。
宝亀11年(780)坂上田村麻呂が音羽の滝で修行中の延鎮に遭い深く帰依して、自分の八坂の邸宅を捨て堂舎を建て、北観音寺と号した。
桓武天皇の大同元年(806)には、境内から湧く水が観音信仰の黄金水、延命長寿の霊水として尊ばれ「穢れを除き、身を清める水」ということから、北観音寺から清水寺に改められたという。
嵯峨天皇の弘仁2年(811)に鎮護国家の道場となり、それより歴代皇室の帰依を受けることとなる。

02舞台mid
妙満寺塔頭・成就院の「雪の庭」、清水寺塔頭・成就院の「月の庭」、北野天満宮神宮寺・成就院の「花の庭」の三つの庭を、成就院の「雪月花の三名園」と呼ばれていた。
(妙満寺の庭は、現在本坊の庭で、神宮寺の庭は現存しなかったが、2022年、北野天満宮に再建された。)
その一つ清水寺塔頭・成就院は、清水寺本堂の北にあり、通常は非公開である。
成就院は、文明年間(1469~87)清水寺を再興した願阿上人(がんあしょうにん)の住房として造られたのが始まりとされる。
現在の建物は、寛永16年(1639)に、後水尾天皇の中宮であった東福門院和子の寄進によって再建されたものである。
幕末には、ここで月照や西郷隆盛などが密談を交わした場所としても知られる。
成就院の庭園は「月の庭」と呼ばれ、室町時代に相阿弥(そうあみ)が造り、江戸時代に小堀遠州が改造し、最後に俳諧の祖と仰がれる松永貞徳が作庭したものである。
江戸時代初期の代表的な借景式庭園で、心字池に映る月影が見事で「月の庭」と言われている。

成就院(京都市東山区清水1丁目294)
京都駅から
▼「D2」乗り場から206系統で『五条坂』または『清水道』下車(所要15~16分)
 「五条坂」「清水道」から、徒歩10分