大徳寺は大燈国師によって、正中2年(1325)に創建された、京でも一二を競う禅宗の寺院である。
一休禅師や沢庵和尚など、数多の名僧を生むと共に、豊臣秀吉が天下を取ると、その庇護の下に発展し、臣下の大名も境内に搭頭を建立している。
また何と云っても茶の湯との関わりが深く、千利休などの茶人との関係もあり、一種、茶の湯サロン的な寺であったともいえる。

01法堂mid
大徳寺は京都五山十刹のうち、十刹の九位になる禅寺である。
(五山十刹は、別格の南禅寺を筆頭に、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の「五山」と、等時寺、臨川寺、真如寺、安国寺、宝幢寺、普門寺、広覚寺、妙光寺、大徳寺、龍翔寺の「十刹」の総称)
伽藍はたびたび火災にあうが、その度に再建され、現在の伽藍は文明年間(1469~86)に一休和尚により復興され、寛文年間(1661~73)に完成したものである。
洛北第一の大伽藍で禅宗建築の典型といわれ、勅使門・山門・仏殿・法堂・庫裏などが一直線に建てられている。

02山門mid
山門は、重層で五間三戸の左右に山廊が付いた造りとなっていて、享禄2年(1529)に下層のみが出来上がっていたものに、天正17年(1589)千利休によって上層部が造られた。
入母屋造・本瓦葺だが造られた時代のズレから下層と上層との間に微妙な違いを見ることが出来る。
上層部には、釈迦如来像や羅漢像と共に、千利休が自身の木像を置いたことから秀吉の逆鱗に触れ、自刃に至ることになるのだが。
この門を潜る者は、利休の下を通るという、訳の判らない理由により、秀吉の怒りを買ったのだが、この頃の秀吉は、かっての覇気も気概もなく、天下人の器量も色褪せた時だったようである。
千利休は大阪堺の人で、桃山時代の茶人で、秀吉に寵愛され大徳寺を中心に茶の湯の文化を形成し、この寺を一大、茶の湯サロンとし権勢を欲しいままにしたのだが、最後は秀吉とのそりが合わず自刃することになるのだが、茶の湯を茶道という文化にまで押し上げたのは特筆すべきである。

03聚光院mid
京の禅宗の寺には「大徳寺の茶面(ちゃづら)」、「南禅寺の武家面(ぶけづら)」、「東福寺の伽藍面(がらんづら)」、「建仁寺の学問面(がくもんづら)」、「妙心寺の算盤面(そろばんづら)」との呼称が付けられている。
大徳寺は茶面と呼ばれているが、千利休が大徳寺を中心に茶道にまで押し上げたことに因み、特に聚光院(じゅこういん)は千家の菩提寺となっている。
聚光院(じゅこういん)は、三好義嗣が、養父長慶の菩提を弔うため、永禄9年(1566)に建立したものである。また、千利休が檀越となり、茶道三千家の菩提寺となっている。茶室は、利休が好んだと云われ、利休が自害した処だとも云われている。
駒札には、
『大徳寺の塔頭で、永禄9年(1566)、三好義嗣(よしつぐ)が亡養父・三好長慶(ながよし)の菩提を弔うため、大徳寺百質世笑嶺宗訴(しょうれいそうきん)和尚を請じて建立した寺である。
聚光院の名は、三好長慶の法名「聚光院殿前匠作眠室進公大禅定門」に由来する。
また、笑嶺宗訴和尚に参禅した千利休が檀越(だんおつ)となり、茶道三千家の菩提寺となっている。
方丈内部には、狩野松栄・永徳父子の筆による桃山時代を代表する障壁画「瀟湘(しょうしょう)八景図」「竹虎遊猿図(ちくこゆうえんず)」「花鳥図」「琴棋(きんき)書画図」があり、全て国宝に指定されている。
茶室は「閑隠席」と「枡床席」があり、共に重要文化財に指定されている。方丈庭園は「百積庭」と称し、国の名勝に指定されている。』
                           出典:【聚光院の駒札】より

大徳寺(京都市北区紫野大徳寺町53)
京都駅から
▼「A2」乗り場から205系統または「A3」乗り場から206系統でで『大徳寺前』下車(所要54分)
 「大徳寺前」からすぐ