JR嵯峨嵐山の北口から大覚寺を目指し北に、丸太町通でひとつ手前の道を曲がってしまい、まあ北に向かえば大覚寺には着くだろうと思って歩いたが………
意外と道が分かりづらく、気が付くと北嵯峨高校の横に出てしまったが、そこは大沢の池であった。(と書くと大袈裟だが、大覚寺はその横である。JR嵯峨嵐山北口から徒歩15分(1.3Km)である)
大覚寺は、もと嵯峨天皇の離宮だった所で、譲位後、仙洞御所となったが、貞観18年(876)離宮を改めて寺とし、淳和天皇の第二子・恒寂親王を開基として大覚寺と名付けた。
以来、門跡寺院として皇族や貴族が住職を務めた。
弘法大師を嵯峨院に招き、大師は五覚院に五大明王を祀り、鎮護国家の秘宝を修され、大覚寺も密教寺院の重要な寺となり多くの寺宝を有している。
正寝殿は、桃山時代の様式で入母屋造・檜皮葺の建物、寝殿は江戸時代の建築といわれ寝殿造風で、それぞれに狩野派の襖絵が有名である。
東側に中国の洞庭湖を模して造った大沢池がある。
大沢池は、大覚寺の東にあり、嵯峨天皇の離宮だった頃はその庭内にあった。
東西265m・南北185mで1万坪の面積を持つ、日本最初の庭園である。
嵯峨天皇が中国の洞庭湖を模して造ったもので「庭湖」とも呼ばれ、泉・滝・名石などの美を極めた池泉舟遊式庭園である。
桜や楓の樹木が多く、春は桜、秋は紅葉の名所として知られている。
南東に傾斜する地形に堤を築くことで、北西側からの流れをせき止めて造られた人工の池として知られ、また周辺水田の灌漑用水として重要な役割を果たしてきた。
大沢池には、菊ケ島や天神島と巨勢金岡が配置したとされる、庭湖石などがある。
大沢の畔には、弘法大師が建立したと云われる、五社明神や大日堂・聖天宮・護摩堂・心経宝塔などの堂宇が建っている。
大沢池は、古くより月の名所としても有名で、仲秋の名月には観月会が開かれ、池に舟を浮かべて月を愛でる。
奈良の猿沢池や大津の石山寺とともに、平安の昔より三大観月地として知られている。
大沢池には、「菊島」と巨勢金岡が配置したという「庭湖石」がある。
大覚寺は華道の嵯峨御流の宗家で、寺伝によると、大沢池の菊島に自生する菊を、嵯峨天皇(在位:大同4年〔809〕~弘仁14年〔823〕)が瓶に挿したことに始まると云う。
菊島は、その下に13世紀代の遺物が含まれた池の堆積土がみつかり、14世紀に大きく盛土をされたことが判明している。
このことは14世紀に大沢池の水位が大きく上昇したことを意味している。
菊島の西に、池中から僅かに頭を出している石が「庭湖石」である。
この石も大沢池の水位が上昇したことにより、石の僅かな部分しか見ることが出来なくなってしまったと云う。
水面下に沈む石の形はどんな姿をしているかを想像しながら庭湖石を眺めた。
大沢池の北東100mにあるのが、小倉百人一首の中で、藤原公任が詠んだ「滝の音は……」の歌で有名な、名古曾滝の石組みが残る。
滝といっても人工的に作られたもので、石組みを作り、流れを滝に見立てたものである。
大覚寺は貞観8年(876)に嵯峨院を寺に改めたもので、鎌倉時代の後宇多天皇(在位:文永4年(1267)~弘安10年(1287))が復興した際に、涸れていた名古曾滝を復活させた。
その後、再び水が涸れ、滝の石組みが残るのみとなった。
『滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名社(なこそ)流れて 尚聞こえけれ』
と名古曾滝を詠んだ藤原公仁(きんとう)は、平安時代中期の公卿で歌人でもある。
諸芸に通じ詩歌や管弦の才を備え、故事にも詳しく、三十六歌仙の一人でもある。
大覚寺(京都市右京区嵯峨大沢町4)
京都駅から
▼「C6」乗り場から28統で『大覚寺』下車(所要54分)
「大覚寺」からすぐ
▼JR嵯峨野線で『嵯峨嵐山』下車(所要23分)
「嵯峨嵐山」から、徒歩15分
コメント
コメント一覧 (1)
昔の雰囲気が残っているいい雰囲気のところですね。
時代劇の撮影が行われるのも分かります。
拍手です。
youhobito
がしました