上賀茂神社は下鴨神社からさらに賀茂川を西北に約3Kmさかのぼった御園橋から、約100mで上賀茂神社の一の鳥居が見えてくる。
一の鳥居、二の鳥居とくぐり、本殿の庭に入る前に、上賀茂神社といえば、よくこの景色で代表される、玉橋と楼門がある。
上賀茂神社は、正式名称を「賀茂別雷神社」といい「賀茂御祖神社(下鴨神社)」とともに、賀茂氏の氏神を祀る神社であった。
その創建は古く、神武天皇の御代に、本殿北2Kmの神山に「賀茂別雷神」が降臨したことに始まるとも、また下鴨神社のご祭神「玉依日売」が瀬見の小川の上流から流れてきた丹塗りの矢によって、処女解任をし「賀茂別雷神」を生んだのが始まりともいわれ、欽明天皇(6世紀)ころには祭礼が行われた記録が残り、天武天皇6年(677)には、社殿が造営されている。
時代は下り、794年に平安遷都が行なわれると、上賀茂、下鴨神社は王城鎮護の神社として崇敬を受けることになる。
斎王として皇室の皇女が代々務めるような大社となっていくのである。
本殿と権殿はともに三間社、流造で、下鴨神社の本殿と同じで、文久3年(1863)の造替になる国宝である。
年中行事として、5月5日の「競馬神事」(くらべうましんじ:平安末期より続く、馬の競争によって豊作を占う)や、9月9日の重陽節句に行われる「烏相撲」(からすすもう:子供たち20仁に相撲とらせ五穀豊穣を祈願する)、そして5月15日の「葵祭」(あおいまつり:平安時代の風俗絵巻をくりひろげる祭)は、上賀茂・下鴨両神社の祭礼で、6世紀欽明天皇の頃に、度々起こる風水害が賀茂神の祟りだとされ、馬に鈴をつけ走らせたところ、嵐が収まり五穀豊穣となったことに由来すると云う。
爾来、賀茂氏により「賀茂祭」として伝えられる。
以降、現代まで都の怨霊を鎮めるための祭として、後の「祇園祭」「時代祭」とともに、京都の怨霊鎮めの祭と云われるようになったのである。
二の鳥居をくぐり、ほぼ正面にあるのが「細殿」である。
この細殿の前で9月9日の重陽節句に烏相撲が行われる。
烏相撲は細殿前に設けられた土俵に、白装束に烏帽子姿の2人の氏子が、「カーカーカー」「コーコーコー」とカラスの鳴きまねを合図に20人の子供の相撲が開始される。
祭神・賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)の祖父・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が神武天皇の東征の際に、八咫烏(やたがらす)に姿を変えて先導した故事にちなみ、五穀豊穣を願う相撲と結びついて烏相撲の神事として現在まで続いている。
普段は、細殿の前には「立砂」と云う、円錐の形をした二つの砂がある。
立砂は、また盛砂とも呼ばれ「たつ」は神様のご出現に由来した言葉で、神代の昔、上賀茂神社の御祭神「賀茂別雷神」が降臨された神山(こうやま)を形どったものと云われる。
神山は、上賀茂神社本殿の北2Kmにある、円錐形をした美しい山である。
このように神が降りるような神聖な場所を神籬(ひもろぎ)といい、神山はまさにその場所なのである。
時が下り、鬼門や裏鬼門(鬼門とは、鬼が出入する門で、万事に忌み嫌われる艮(うしとら)の方角で東北をさす)(裏鬼門とは、鬼門の反対で、未申(ひつじさる)の方角で西南にあたる))に砂を撒き清めるのは、この立砂が起源と云われている。また門口などに置かれる清めの塩も又、この立砂に由来しているのである。
上賀茂神社だけでなく、他の神社でも時々見かけることがあるので、目につくことがあるかもしれない。
細殿の右に見えるのが「土殿」でその左が「舞殿」である。いずれも寛永5年の造替で、重要文化財である。
参照:【立砂 解説の駒札】より
上賀茂神社(京都市北区上賀茂本山339)
京都駅から
▼「A2」乗り場から4統で『上賀茂神社前』下車(所要52分)
「上賀茂神社前」からすぐ
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