萬福寺は、宇治市にある日本三大禅宗の一つ、黄檗山の大本山で隠元隆琦(いんげんりゅうき)によって開山される。

01三門mid
隠元隆琦は、1592年12月、中国明の時代の福建省に生まれている。
29才で黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度・出家し、中国各地で禅の修業を積む。
中国福建省の黄檗山萬福寺の住職の時に、日本からの度重なる招請に応じ、承応3年(1654)63歳の時に、弟子20名を伴って来朝する。
徳川4代将軍・家綱や後水尾天皇などの帰依を受け、寛文元年(1661)宇治の地に、中国福清県にある黄檗山萬福寺に模し、黄檗山萬福寺と同じ名付けて開山をする。
隠元は、宗教界だけでなく、日本文化にも影響を及ぼし、美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷、煎茶、普茶料理などや隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹・木魚など、隠元の請来によるものは数多くある。

02本堂mid
萬福寺は、寛文元年(1661)隠元隆琦によって開山される。
隠元のいた中国・黄檗山を模して作られ、建物は中国の明朝風で、菊舎尼が詠んだ「山門を 出れば日本ぞ 茶摘み唄」というように、境内に足を踏み入れば、そこは日本ではなく中国のようである。
日本の三大禅宗は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗であるが、黄檗宗は他の2宗と違い中国的な特色が色濃く残っていて、江戸初期から中頃にかけての13代までの住職は中国僧であり、お経の読み方も中国式だったという。
建物は中国・明朝風で、本堂の十八羅漢像や天王殿の弥勒像、韋駄天像などは、隠元と供に来日した中国人仏師・笵道生(はんどうせい)の作で、明代の彫刻の趣きを残している。

03普茶mid
隠元が中国の禅文化と供に伝えた、素菜(スーツァイ:中国式の精進料理)が普茶(ふちゃ)料理であり、「普茶」とは普(あまね)く衆人に茶を施すという意味で、茶による接待のことを云う。
長方形の卓袱台(ちゃぶだい:座卓)を4任で囲み、大皿に盛った料理を分け合って食べる様式で、禁葷食(きんくんしょく:仏教の菜食の一種)の精進料理で薬膳料理の一種でもある。
料理も中国風のものが多く、異国情緒が楽しめる料理として広く嗜まれてている。

黄檗宗大本山「萬福寺」(宇治市五ケ庄三番割34)
京都駅から
▼JR奈良線で『黄檗』下車(所要23分)
 「黄檗」から、徒歩5分