出町柳から河合橋を渡り、糺の森の入口にあるのが、葵公園である。
この一角に、尾上松之助の胸像が建っている。

01胸像mid
尾上松之助といっても、その人誰という感じだろうが、尾上松之助は明治から大正にかけて、日本映画の大スターである。
明治42年(1909)に、日本映画の父といわれる牧野省三監督の時代劇で映画界に入り、目を見開き見得を切ることから「目玉の松ちゃん」と呼ばれた。
日本映画の草分けである横田商会が製作した時代劇の殆んどに出演し、日本映画創生期の大スターである。
胸像の碑文には、
『尾上松之助(本名:中村鶴三)氏は、目玉の松ちゃんの愛称で親はれた時代劇俳優の先覚者であった。
この像は氏が社会の福祉につくされた数々の功績をたたえるとともに、その精神である平和な社会を念願して建造したものである。
昭和41年2月  京都府知事  蜷川虎三』
とある。

今年(2023年)の春に建てられた案内板には、
『目玉の松ちゃん
尾上松之助(おのえまつのすけ)本名は中村鶴三。日本映画の最初の大スター。
1875年(明治8年)
岡山池田藩の下級武士の子に生まれる。
近所に「旭坐」という上方歌舞伎の芝居小屋があり、幼い頃から遊芸に親しむ。
5歳の時初舞台、14歳で青年芝居の一座に加わり、芝居巡業を始めた。
1904年(明治37年)
二代目「尾上松之助」を襲名。
巡業中、のちに「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三に、身軽いケレン(派手な演技)をかわれ、牧野が営む京都の千本坐に招かれた。
1909年(明治42年)
千本坐に主演中、映画「碁盤忠信」に初出演。
以降、英雄・豪傑・立ち廻り・忍術ものなど、約1,000本の映画の主演を務めた。
松之助は、「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれ、日本最初の「国民的大スター」と言われるようになった。
1926年(大正15年)
撮影中に心臓病で倒れ、養生の甲斐なく逝去、享年50歳。
葬儀に際しファンや京都市民20万人が見送った。
その葬儀の模様は記録映画として残されている。』
                      出典:【目玉の松ちゃん案内文】より

02二條撮影所mid
目玉の松ちゃんの所属した横田商会は、二条城のすぐ近くに撮影所を開設した。
その跡地に二条城撮影所跡の碑が建っている。||
碑文によると、
『歴史と文化の都・京都は日本映画発祥の地であり、映画の都である。
世界文化遺産「二条城」の膝元であるこの地に、明治43年(1910)に横田永之助の横田商会により、京都初の撮影所である「二条城撮影所」が開設された。
この撮影所の規模は、およそ300坪の土地に2間×4間の低い板敷の舞台をしつらえ、それを開閉自由の天幕で覆うという簡素なもので、背景はすべて書き割りであったと言うが、大正から昭和初期の日本映画隆盛の一時代を築いた京都の映画産業の礎となった。
ここで日本映画の父と言われる牧野省三が、尾上松之助とコンビを組み、最初の作品「忠臣蔵」を撮影し、実力をつけた牧野はその後、京都を舞台に数々の名作を手がけるなど、日本映画の基盤が作られた。』
とある。この碑は平成9年11月、京都映画100年を記念して建てられた。

目玉の松ちゃんの胸像(京都市左京区下鴨宮河町)
京都駅から
▼「A2」乗り場から5・205系統で『新葵橋』下車(所要42分)
 「新葵橋」から、南に徒歩4分