夷川通川町東入るに「銅駝美術工芸高」がある。
この場所は明治の始めに「舎密局(せいみきょく)」があった処である。

01舎密局mid
舎密とはオランダ語シェミーの訳語で、化学のことである。京の産業を振興すべく、京都府が設立した理化学研究所である。
駒札には、
『「舎密」とはオランダ語シェミーの訳語で化学のこと。
東京遷都により沈滞した京都の産業を振興する目的で、京都府が設立した理化学研究所である。
明治3年(1870)明石博高の建議により府知事槙村正直が仮設立、同6年本建築が落成した。
広く受講生を募集し、ドイツ人ワグネルら外人学者を招き、京都の伝統産業である陶磁器、織物、染色の改良実験をはじめ、わが国初の石鹸の製造、鉄砲水(ラムネ)、ビール等飲料の製造、七宝、ガラスの製造等、工業化学の研究と普及につとめた。
また、本格的な理化学の講義は島津源蔵ら多くの人材を育て、京都の近代産業の発達に大きな役割を果たした。
明治14年、槇村知事の転任によって閉鎖、建物も同28年に消失し、その後に銅駝(どうだ)校が建てられた。』
                          出典:【舎密局跡の駒札】より

02ワグネル碑mid
ここで教鞭をとったワグネル博士の顕彰碑が岡崎公園の中に建っている。
ゴッドフリード・ワグネルといい、ドイツ出身のお雇い外国人である。
ワグネルは慶応4年(1868)に、長崎に石鹸会社を造るにあたり日本に来るが、この会社は上手くゆかず、佐賀藩で有田焼の改良に手を染めた後、東京帝大のドイツ語講師として東京に移ることになる。
その後、ウイーン万国博への出展指導や七宝指導、清水焼や粟田焼などに係わり、明治11年(1878)2月から3年に亘り、京都の舎密局で理化学の講義を行うこととなり、明治14年(1881)に閉鎖になるまで、京都の近代工業化に尽力を尽くした。
このことにより、岡崎公園内に顕彰碑が建っているのである。
碑文には、
『ドクトル・ゴッドフリード・ワグネル君は独逸国ハノーヴェル州の人なり。
維新の初、我邦に来り科学を啓道し工芸を掖進すること二十余年、主に本市に於て尤も恩徳あり。
明治十一年、君本府の聘に応じ来て理化学を医学校に、化学工芸を舎密局に教授し、旁ら陶磁七宝の着彩琺瑯玻璃石鹸薬物飲料の製造色染の改善に及び、講演実習並び施し人才の造成産業の指導功効彰著官民永く頼る。
大正十三年、本市東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会参加五十年記念博覧会を岡崎公園に開く。初め本邦斯会に参加するや君顧問の任を帯びて本市に来り頗る斡旋する所あり。
是に至て市民益々君の功徳を思ひ遂に遺容を鋳て貞石に嵌し之を会場の一隅に建つ。
庶幾はくは後昆瞻仰して長に旧徳を記念せむことを。
京都市長従三位勲二等馬淵鋭太郎誌す』
                        出典:【ワグネル碑の碑文】より

ワグネルの碑(京都市左京区岡崎成勝寺町)
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統で『岡崎公園美術館・平安神宮前』下車(所要30分)
 「岡崎公園美術館・平安神宮前」から、徒歩2分