西郷隆盛が「近衛家の清少納言」と褒め称えた村岡局は、名は矩子(のりこ)といい、天明6年(1786)大覚寺門跡・津崎左京の娘として、嵯峨に生まれる。
13才で近衛忠熈(ただひろ)に仕え「村岡」と名を改め、安政元年(1854)篤姫が、徳川14代将軍・家定のもとに嫁ぐ時、村岡も江戸に同行している。
勤皇の志厚く、公卿や志士との間を奔走した。政の大獄で捕えられ、江戸に送られるが顔色ひとつ変えることなく、「日々にかかれる 旅路にかかわらぬは 人の心のまことなりけり」と詠んでいる。
禁固30日、永謹慎を言い渡され京に戻ると、嵯峨野の直指庵で余生を過ごし、明治6年(1873)88才にて、その生涯を閉じている。
嵯峨野には村岡局に関わるものが三つあり、
一つ目は、嵐山公園にある「津崎村岡局の銅像」
この銅像は、幕末の勤王家、津崎村岡局の像で、昭和3年(1928)、原型作者中牟田三次郎、設計者阪谷良之進の製作によって建てられた。
『嘉永6年(1853)ペリーの来航とともに幕末の政局は俄に慌ただしくなり、近衛卿は尊王攘夷派の公家として頭角を現した。
局は、僧月照や水戸の鵜飼吉左衛門らと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たり、特に、近衛卿や西郷隆盛らの運動を助け活躍した。
このため、安政5年(1858)井伊直弼による安政の大獄が起こると、局も捕えられて江戸に送られ、永の慎に処せられた。
その後、近衛家を辞して北嵯峨の直指庵(じきしあん)に隠居、付近の子女の教育に尽くした。
村岡局は維新の女傑といわれているが、晩年は嵯峨庶民の慈母でもあった。
明治6年(1873)88才で没した。』
出典:【津崎村岡局の銅像の駒札】より
二つ目は、大覚寺大沢池の畔にある「津崎村岡碑」
駒札によると、
『津崎村岡(矩子)は、幕末から維新にかけての女流勤皇家で、大覚寺門跡諸大夫・津崎筑前守の妹として、天明6年(1786)京都に生まれる。
幼少より近衛忠煕(ただひろ)に仕え、村岡局となる。時勢の変遷に明るく、成就院僧・月照や西郷隆盛らと交友を持ち、維新を助ける。』
出典:【津崎村岡碑の駒札】より
三つ目は、直指庵の中にある「津崎氏村岡矩子之墓」
「窓近き 竹の林は 朝夕に 心をみがく種と こそなれ」津崎村岡
直指庵には、勤皇の女傑といわれる村岡局の墓がある。
墓碑には自筆で「津崎氏村岡矩子之墓」と刻まれている。
駒札を要約すると、
『天明6年(1786)に、嵯峨大覚寺宮の家来津崎左京の娘として生まれた。
矩子は幼年より事理にさとく利発ゆえに十三才の時に近衛家に仕え、当主忠煕の信頼を受け「陽明家(近衛)の清少納言」と言われた。
近衛家では村岡と呼ばれ、後には老女の地位に昇った。
安政6年(1859)尊王攘夷を主義とする志士の申し出を村岡局が、時の左大臣近衛忠煕に取り次ぎ便宜を図ったとの罪で江戸に投獄された。
世に言う安政の大獄である。
村岡局は、かって島津斉彬の幼女篤姫が13代将軍家定の室(妻)として江戸へ向かった。その時、71才の局は篤姫の養母となって江戸城に行き将軍や諸大名の面前で七汁二十二菜の馳走を平らげ「願いのものを何なりと与えよう」との将軍の言葉に対し「わが主君近衛家の柱臣一名を将軍家の側に置かれたい」と述べて一同を驚嘆させた。
その時頂戴した三つ葉葵の紋を散らした打掛を着て評定所の白砂に坐ったのであるから、安政の大獄の過酷に慣れた奉行も村岡局の扱いに困った。74才の時である。
禁固30日に処されて永謹慎を言い渡され、嵯峨に帰り直指庵に入って、近衛家代々の冥福を祈りながら風月を友として、里の人々の教養につとめた。
明治6年(1873)8月23日、88才で寂した。明治天皇から従四位が贈られた。』
出典:【勤皇の女傑・村岡局の駒札】より
その村岡局がここに眠っている。
津崎村岡局の銅像(京都市右京区嵯峨亀ノ尾町 亀山公園内)
京都駅から
▼「C6」乗り場から28系統で『嵐山天龍寺前』下車(所要45分)
「嵐山天龍寺前」から、徒歩11分
▼JR嵯峨野線で『嵯峨嵐山』下車(所要12~18分)
「嵯峨嵐山」から、徒歩20分
コメント