桂小五郎のちの木戸孝允は、明治維新を主導した人物たちの中で、逃げの小五郎と陰口をたたかれながらも、暗殺や兵禍にも遭わず唯一、畳の上で亡くなった人物である。
河原町通を御池までくると、通りを越した右側に「京都ホテルオークラ」が見えてくる。この場所が、長門国萩藩毛利氏の京都藩邸(長州屋敷跡)が在った処である。
長州藩は戦国時代、毛利元就のときに中国、山陰地方を併せ持つ大大名となる。
後に、毛利輝元が豊臣秀吉に仕え、120万石という石高を受領している。
ところが、関ヶ原の合戦では西軍の総大将に担ぎ出され、大坂城に入るものの西軍が大敗。
関ヶ原で一門の小早川秀秋裏切りや吉川広家の内通など家康側に貢献し、家康に敵意はなく所領安堵の約束があったにもかかわらず・・・
関ヶ原の責任を問われ、周防(山口県の南半分)と長門(山口県の西半分)の二国に押し込められ、石高も36万9千石となっている。
居城地も日本海側の萩ちするよう命じられ、以来倒幕を暗黙の国是とし、時を経て倒幕の道を歩み、明治維新を迎えることとなる。
桂小五郎は、天保4年(1833)6月に、長州萩の藩医・和田昌景の子として生まれている。8才で桂家に用紙に出されるが、養父母が亡くなった為に、実家で桂の子として育てられるのである。
小五郎を倒幕の道に導いたのが吉田松陰であり、出会いは松陰20才、小五郎17才の嘉永2年(1849)の夏である。
3年後に江戸に留学をし斎藤弥九郎に剣術を学び、神道無念流の免許皆伝を受ける。
嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航した衝撃を受け、長州藩の改革に取り組み、西洋式の軍制を推し進める。
文久2年(1862)29才頃から久坂玄瑞や真木和泉らと共に尊王攘夷活動を始め、他藩との折衝や公卿との応接に当たるが、文久3年(1863)8月18日の政変で、長州藩と尊王攘夷派の公家が京を追われるが、桂は名を変えて京に留まるのである。
元治元年(1864)の池田屋事件では、一度池田屋に赴くが、時が早くその場を去ったことにより、危うく難を逃れるのである。
また芸妓・幾松の助けにより幾度も幕府の追ってから逃れるのである。
この頃から「逃げの小五郎」と言われ、いち早くその身を安全な場所へと逃している。
元治元年7月に禁門の変(蛤御門の変)が起こり、その後、但馬出石に潜伏をする。
第一次長州征伐が行なわれ、慶応2年(1866)薩長同盟が結ばれ、討幕が加速され、慶応3年(1867)10月に大政奉還がなされる。
慶応4年(1867)1月、鳥羽伏見で薩長と徳川幕府で戦端が開かれ、1年半に及ぶ戊辰戦争となる。
明治を迎え政府の中枢を担い、制度改革を推し進めるのだが、明治10年(1877)西南戦争の最中に、京の邸宅にて病没する。享年45才であった。
維新の三傑と言われた、情の西郷隆盛は、西南戦争で自刃をし、意の大久保利通は、不平士族に暗殺をされている。知の木戸孝允(桂小五郎)は、唯一その寿命をまっとうしたのである。
ちなみに、木戸の名は、桂を二つに分け、木圭(もくけい)の音から、木戸と称したのである。
逃げの小五郎に幾松ありといわれたように、幾度か幾松の機転に助けられたという。
木屋町通にあった料亭「幾松」は長州藩の控え屋敷として建てられたもので、桂小五郎が幾松と共に住んでいた跡である。
幾松はなかなかの美人だったようで、桂が一目惚れしたという。
当時の幾松は、山科の太夫が贔屓にされており、桂はこれと張り合うことになるのだが、最後は伊藤博文が刀で脅して桂のものになったという。
それより、桂が逃げ回る最も困難な時代を幾松は献身的に桂を支えるのである。
木屋町通御池上るに「幾松」があり、幕末当時には、不意の敵に備え天井に大石が、また部屋から鴨川の河原に出られる抜け穴があったという。
幾松は木戸松子としてその生涯を幸福に暮らし、木戸孝允の死後、出家して翠香院として木戸の菩提を弔い、明治19年(1886)に京都木屋町で病没する。享年44才であった。
残念ながら、料理旅館「幾松」は令和2年(2020)10月20日をもって閉店となった。
河原町通竹屋町東入ルに、石長本館松菊園という旅館がある。この辺り一帯が木戸孝允邸の跡であり、彼はこの地にて病没する。
石長本館の北側、竹屋町に「お宿いしちょう」がある。ここにも「木戸孝允旧邸跡」の石碑が建っていて、この辺りもまた木戸邸の屋敷が建っていた所である。
木戸邸はもともとは近衛家の河原町の別邸で、明治初年に孝允が譲受して京都の別邸としている。
碑文には、『明治十年五月十九日、孝允病篤く聖賀の臨幸有り、同月廿六日薨去す。
時に四十五才文部大臣聖蹟に指定し、記念館として保存される。
当邸は元近衛家河原御殿なりしを、明治初年孝允譲受京都別邸となす。』
出典:【木戸孝允旧邸跡の碑文】より
さらにその奥、鴨川に面して建つ、市職員会館「かもがわ」の前にも「明治天皇行幸所木戸邸」の石碑が建つ。
石長本館前の土手田通から鴨川までの一帯が木戸邸の旧宅だったのである。
ここに、この碑が建つのは、明治10年(1877)2月に西南の役が起こると、それを案じ兼ねてからの脳発作が悪化し、5月19日に明治天皇がこの地に木戸を見舞われるも、「西郷もいいかげんにしないか」との言葉を残し、5月26日45才でこの世を去るのである。
東山の霊山墓地(霊山護国神社)の一番の高みに木戸孝允(桂小五郎)と木戸松子(幾松)の墓が並んで建っている。
京の三本木の芸妓・幾松の時に、桂小五郎と出会い、小五郎苦難の時代を共に過ごし、明治維新を向かえ正妻となり、木戸松子を名乗り、勤皇の志士たちが眠る霊山の小五郎の側で眠っているのである。
桂小五郎の像(京都市中京区一之船入町河原町押小路下る)
京都駅から
▼「A2」乗り場から4・17・205系統で『京都市役所前』下車(所要16~19分)
「京都市役所前」から、徒歩3分
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