山科に住まいした頃より大石内蔵助は、花街で遊び呆けるようになる。
忠臣蔵では、唯一、華やかさを演出する場面となる。
その場面は、祇園の「一力」で遊んだとされているのだが、実際は、伏見の遊郭「橦木町」にあった「萬屋(よろづや)」という遊郭で遊んだようである。

01撞木橋mid 02撞木町mid
撞木町遊郭には、国道24号線を近鉄「伏見駅」から二つ目「伏見区撞木町」の名が見える陸橋の北、伏見郵便局の東に二つの石碑が建っている。
一つは「橦木橋」と漢字で、もう一つは「志ゆもくはし」とかなで刻まれている。
今ここには橋はないのだが、琵琶湖疎水が、調度24号線に沿っている所だけが暗渠となっていて、川の流れは見えないが、その昔はここに川があり、橦木橋を渡って男たちは橦木町の遊郭に足を運ぶのである。
もう一つは師団街道が24号線にあたる少し手前の右側に、大正7年八月吉日に建てられた石碑があり、右は「撞木町廓入口」、左は「志ゆもく町廓入口」と刻まれている。
ここから入り、奥にある小さな祠がある辺りまでの一帯が、橦木町の遊郭であった。

03撞木郭mid
師団街道側から入ると民家前に「橦木町廓之碑」が建っている。
その碑文には、
『絶世の英雄豊太閤伏見城を築くに及び、伏見の殷賑(いんしん:盛んで賑やか)は一躍して天下の中枢となれり。
当遊郭は、此(この)殷賑時代の創設にかゝり、慶長元年林五一郎なるもの伏見田町に遊郭を起したるを其前身とし、伏見落城後幾くもなく廃滅に帰せしかば、渡辺掃部(と)前原八右衛門の両名は時の伏見奉行長田喜兵衛芝山小兵衛に請ひ慶長九年十二月二日、富田信濃守邸址を開地して再興す。
花街の形状撞木(しゅもく:鐘などを鳴らすのに使う丁字形の棒)に似たるにより、撞木町の名あり。実に今を距る三百十四年の昔なり。
其後、幾盛衰を経たるが元禄宝永の頃は最も繁栄せしものゝ如く、各書には都に近く島原の流れを汲めるにより鄙びず(ひなびず:卑しくない)と嘗(こころみ)て京都の公家衆の多数が屡々(たびたび)来遊せし事をも載す(さいす:掲載する)
殊に、赤穂義士大石良雄が敵を欺く佯狂(ようきょう:気違いのまねをする)苦肉(敵をあざむく)の一策として、当遊郭、笹屋清左衛門方に遊興せることは人口に膾炙(じんこうにかいしゃ:広く人々に知れ渡り、持て囃されること)せられ、義士の名とともに撞木町の名は天下に伝はり且義士が此処に復讐の謀議を凝らして目的を達せるより、後来当遊郭に於て謀議する時は何事も成就すべしとて来遊する人々多しと云
大正七年十一月 高橋桃城誌 遊雲散士書』
とある。
     出典:【橦木町廓之碑の碑文】より(句読点および( )内は遊歩人が加筆)

撞木町遊郭跡(京都市伏見区b撞木町1164-1)
京都駅から
▼近鉄電車京都線で「伏見」下車(所要4分)
「伏見」から、東に徒歩10分