松原橋を渡り川端通から一つ東の通りに入ると、宮川町歌舞練場が見えてくる。宮川町は京都五花街の一つで、大和大路と川端通の間、南は松原通から北の団栗通まで(宮川筋二丁目から六丁目)の小路にあり、出雲阿国の時代に若衆歌舞伎に始まり、若衆歌舞伎の小屋や茶屋が建ち ...
2022年11月
松原橋
何年か前にyahooブログが終了することになり、ブログをLive doorに移行した。ところが2006年から始めた初期のものが移らなかった。今回は、バスを「河原町松原」で降り東に、高瀬川を渡り木屋町通を横切ると、鴨川に架かる「松原橋」が見えてくる。橋を渡り東山を望むと ...
後白河法皇-鎌倉殿-/鎌倉殿と京都
平家が滅ぶと、源頼朝との関係が複雑となってくる。後白河法皇は義経を取り込むことで、鎌倉の頼朝と対峙しようと考えるのだが、頼朝は義経が法皇に近づくことを快く思わず、義経に謀反ありとして、義経の追討を命じ奥州平泉で義経を討ち、これをかばった藤原氏をも滅ぼして ...
後白河法皇-平家滅亡-/鎌倉殿と京都
治承5年(1181)に平清盛が亡くなると、平家打倒の気運はいっそう強まることとなり、伊豆では源頼朝が、信濃では頼朝に追われた源行家に頼られた源義仲(木曽義仲)が、平家討伐の兵をあげるのである。寿永2年(1183)、倶利伽羅峠で平家の追討軍を敗った木曽義仲 ...
後白河法皇-平家の隆盛と清盛の死-/鎌倉殿と京都
後白河上皇が院政を再開した頃が平家一門の栄華の絶頂期で「平家にあらずんば人にあらず」と言わしめた。数え年2才(満7ケ月)で即位した六条天皇は平清盛らの思惑で、2年8ケ月後の仁安3年(1168)に、平慈子が産んだ後白河上皇の第七皇子の憲仁親王(80代高倉天 ...