一豊・千代とは関ケ原合戦の後、土佐の城主に封じられた山内一豊と妻・千代である。孫作は田中孫作という山内家の家臣で、関ケ原合戦の前夜において重要な働きをする人物である。妙心寺の塔頭「大通院」の中興の祖・湘南宗化は、山内一豊が長浜城主の時、天正の地震で長女・ ...
2022年01月
「珠数供養」は何故、数珠と書かない(赤山禅院)/京の雑学
「珠数供養」は何故、数珠と書かない(赤山禅院)/京の雑学「じゅず」という漢字は、一般的には「数珠」と表すのだが、一方「珠数」と逆の並びに書く「じゅず」の字がある。では「じゅず」の字は「数珠」なのか「珠数」なのかという疑問が残る。もともとは「珠を数多くつな ...
みかえり阿弥陀(永観堂)/京の雑学
南禅寺から北に歩いて7分ほどの所にあるのが「永観堂」である。正しくは「聖衆来迎山無量寿院禅林寺」という。なぜ永観堂と呼ばれるのかというと、第七世住持・永観律師(ようかんりっし:1033~1111)の存在に起因する。(寺名はえいかん、律師はようかんと読む) ...
禅風を表した「禅づら」とは(下)/京の雑学
「禅づら」という言葉がある。それは禅宗のお寺の禅風を表すもので、それぞれの禅寺の特徴ともいうべきものである。第四位「東福寺」・・・「伽藍づら」三門や仏殿などの伽藍の大きさから「伽藍づら」と云われる。九条道家が嘉禎2年(1236)に、九条家の氏寺とする為、 ...
禅風を表した「禅づら」とは(上)/京の雑学
「禅づら」という言葉がある。それは禅宗のお寺の禅風を表すもので、それぞれの禅寺の特徴ともいうべきものである。京都五山というと、京の禅宗寺院に対する格付けをいい、中国南宋の五山十刹に倣ったもので、臨済宗の五つの禅寺をいい、室町時代の3代将軍、足利義満の時に ...