2021年08月

山城国宇治田原まで逃げた信西は、この地で追手に追い付かれ自害して果てるのだが、大正5年に地元の有志によって、信西を供養する塔が建てられたいる。「信西入道塚」の向いには「大道(おおみち)神社」があり、信西の首を洗ったという「信西首洗い池」が残っている。大道 ...

信西の名は出家後の法名で、俗名は藤原通憲(みちのり)という。通憲は幼少の頃より才があり、博識をもって官位を昇ってゆくのだが、その才能を充分に発揮出来ず、それに失望した通憲は出家をし信西と名乗るのだは、その心の内を「ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ...

信西の屋敷は三条東殿からほど近い所にあり、源義朝が三条東殿に攻め込むも信西の姿はなく、ここにを放ち、近くの信西邸にも攻め掛かり火を放つ。三条東殿は姉小路烏丸東入るの新風館の辺りにあったようで、信西邸は烏丸通から通り6つ目の姉小路通西洞院西入る宮木町の辺り ...

下立売通を浄福寺の通りを越えて、さらに東へ、もうすぐ智恵光院通という所、山中油店の前に「平安宮一本御書所跡(いっぽんごしょどころ)跡」の石碑が建つ。(上京区下立売通智恵光院西入る)一本御書所は、平安宮内裏の東側、侍従所の南にあり、世間に流布した書物を一本( ...

姉小路通烏丸東入る南側の新風館の前に、三条東殿跡を示す「三条東伝遺趾」の碑が建っている。三条東殿は、白河法皇(1053~1129年)の院御所で、もとは、藤原家保が所有していたのを法皇が奪い取る。法皇亡き後は、待賢門院(1101~45年、藤原璋子:崇徳天皇 ...

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