2019年11月

長崎から大坂に戻る船の中で、後藤象二郎に話したという「船中八策」であるのだが、実はその前に、横井小楠が、「国是七ケ条」なるものを提唱していて、この影響を大いに受けているともいう。まずは「国是七ケ条」から見てみよう。国是七条は、文久2年(1863)、福井藩 ...

船中八策は、龍馬が土佐の船「夕顔丸」にて、長崎から兵庫に向かう船中で、後藤象二郎に示したものである。その船旅のことを、下関のお龍に宛てた手紙に、「けして/\御安心被成度候。先ハ早〻かしこ。 五月廿八日夕  龍  鞆殿」(けっして、けっしてご安心なされたくそ ...

龍馬は「いろは丸事件」の決着を着けようと長崎へと向かう。そこでも紀州藩は逃げ腰で、幕府に判断を委ねようと主張する。対して龍馬は、万国公法を基に外国の判例に照らして解決しようとしたのである。慶応3年(1867)5月15日に長崎の聖福寺にて交渉が再開されるの ...

「いろは丸」は沈没したが、乗組員34人は「明光丸」に移り無事であり、一同、鞆の浦に上陸し枡屋清右ヱ門宅に逗留する。事件の後、鞆の浦の魚屋(うおや)萬蔵宅で紀州藩と交渉をするが、4日間で交渉は打ち切ら龍馬はれた。この時のことを大坂に居る海援隊士の菅野覚兵衛 ...

いろは丸事件とは、坂本龍馬の海援隊の船「いろは丸」と紀州藩の船「明光丸」が、瀬戸内海の笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島付近で衝突し「いろは丸」が沈没した事件である。「いろは丸」(伊予大洲藩の所有で、海援隊が一航海(15日)500両で借り受けた船で、1 ...

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