2019年08月

龍馬さんが生きた頃の土佐藩の藩主は15代・山内豊信(とよしげ)で隠居して、容堂と名乗っている。容堂は分家南邸の長男で、父は山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)、母は側室の、扶持大工、平石氏の娘である。普通、藩主の子は江戸で生まれ育つが、豊信は高知城下の城か ...

河原町通を御池までくると、通りを越した右側に「京都ホテルオークラ」が見えてくる。この場所が、長門国萩藩毛利氏の京都藩邸(長州屋敷跡)が在った処である。長州藩は戦国時代、毛利元就のときに中国、山陰地方を併せ持つ大大名となる。後に、毛利輝元が豊臣秀吉に仕え、 ...

土佐藩邸跡の横、高瀬川に架かる「蛸薬師橋」を渡り、蛸薬師通を河原町通に歩くと、右側に「土佐稲荷・岬神社」がある。駒札には、『祭神は「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」と「石栄神(せきえいのかみ)」の二柱(柱は神様を数える 単位)。農耕・商売・土木・金工など諸業 ...

木屋町通から高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の元立誠小学校の辺りが、江戸時代の始めから明治4年(1871)まで、土佐藩山内家の京都藩邸があった処である。土佐藩は二十四万二千石の外様で、長宗我部氏が治めていたものを、関ケ原の戦で西軍についた長宗我部盛親 ...

高瀬川は、慶長19年(1614)に角倉了以によって開墾された、二条から伏見までの10kmの運河である。ここを通る高瀬舟の荷物の積み下ろしの為に設けられたのが「舟入」といわれる場所である。二条から四条までの間に九つの舟入があったが、唯一現存するのがこの一之 ...

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