大石内蔵助は赤穂を出ると山科の岩屋寺の一角に居を構えるのである。
赤穂城が明け渡しとなると、藩士は他家に仕官したり、旧知を頼って行く者などがあり、そして大石と行動を共にするもの達は、大阪、伏見、京都などの居を構えるのである。
江戸詰めの者は、藩邸を出て借家住まいをすることになる。
大石は、大石家と深い繋がりのある進藤源四郎が代々、山科のこの地に田畑を持っていたことから、これを頼り、家族共々ここに住まいするのである。
大石はここで浅野家再興の嘆願書を幕府に提出しており、討ち入りまでの月日をここで過ごすことになる。
討ち入りが決まると、大石内蔵助は、妻・理久と幼い子供達を山科から、妻の実家の豊岡にと送り返すのだが、忠臣蔵では「山科の別れ」として、長男の主税を元服させて手元に残し、理久がまだ幼い長女・くう、次男・吉之進、次女・るりを連れ、内蔵助と主税に別れを告げ、山科から去っていくという、お涙頂戴の場面が描かれる。
しかし最近、大石内蔵助が理久の父に宛てた手紙が見つかり、忠臣蔵が描く「山科の別れ」が少し変わってきたのである。
それによると、豊岡に向かったのは、妻の理久と長女、くうの二人だけで、大石内蔵助の家来と侍女、それと理久の父の家来二人の六人だったようで、吉之進は豊岡に、るりは進藤源四郎の養女になっていたという、新事実が判ったことにより、忠臣蔵が描くような「山科の別れ」はなかったようなのである。
別れた時も、元禄15年4月14日と判明している。この時に理久は身篭っており、実家に帰ってから、後に広島藩に仕える、三男、大三郎を出産している。
岩屋寺の境内には、大石内蔵助の遺髪を納めたという「大石良雄遺髪之塚」がある。
大石内蔵助良雄の遺髪を納め、塚を建て大石の菩提を弔ったのである。
大石の仮住まいの跡に、大石を感じるようにと、江戸の有志が碑を建て、文を書いたのが、伏見の龍公美だとある。
討ち入りから70年後の、安永4年(1775)乙未冬の建立である。
碑文は、
『是故赤穂侯重臣大石良雄所仮居之処也如/其忠精先哲既伝而膾炙人口不復贅焉/嗚呼百歳之下其人与骨皆已朽矣雖則其人与骨皆已朽矣/乎毎履其地而思其人懍々如有生気豈非其忠精所激名声/不朽者乎今也鐫石以誌焉顧当后之過此者乃有涕以従焉矣銘曰焦心飲胆薄言潜鋩死而不死』
出典:【大石良雄遺髪之塚の碑文】より
意訳すると、
「ここはもと赤穂藩重臣大石良雄の仮居があった所である。/その忠誠は昔の偉い人が既に伝え人に知られているのでくどくは述べない。/百年も経つと大石良雄も骨になりその骨もばらばらとなる。/そうなっても仮住まいのこの地を訪ねると大石が生きているかのように感じるのは忠誠の心ゆえであろう。/ここを訪ねる者が感激を共有出来るように、大石の仮住まいの跡に碑を建てることとした。」
大石良雄遺髪之塚(岩屋寺に)(京都市山科区西野山桜ノ馬場町96)
京都駅から
▼JR琵琶湖線で「山科」下車(所要4分)、京阪バス「大宅」行きで『大石神社前』下車(所要15分)
「大石神社前」から、徒歩10分
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