大石神社の南にあるのが岩屋寺で、このあたりが大石内蔵助が住まいした所といわれる。。

01閑居跡石碑mid 02閑居跡mid
岩屋寺の参道の入口に建っているのが、「大石太夫閑居址」の石碑で、この長い坂道を登っていくと「岩屋寺」である。
神遊山岩屋寺と号する、曹洞宗の寺であり大石内蔵助と繋がりの深い寺で、本堂には、大石内蔵助の遺品や浅野内匠頭と四十七士の位牌、遺品等が安置されている。
12月14日には「山科義士まつり」が行われ、討ち入り当時を再現する行列がここを訪ねる。
参道の途中に「右 大石良雄山科閑居址」・「左 曹洞宗神遊山金地院岩屋寺」と刻まれた石碑が建つ。
この辺りが内蔵助の住まいだったのであろうか、それにしては山科の町を見下ろす高台にあり、日々の暮らしには大変であるが、密かに集まるには持って来いの場所だったのであろう。
吉良上野介を討ち誓願成就したときに、大石の住まいした所や田畑一切を「岩屋寺」に寄進をしたことで、別名を「大石寺」ともいう。

03本堂mid
岩屋寺の由緒は駒札によると、
『創建時は天台宗に属し、比叡山三千坊の一つであったが、現在は曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で神遊山金地院と号する。古来は隣接する山科神社の神宮寺であったと伝えられる。赤穂義士・大石良雄(通称大石内蔵助)の隠棲地として有名で、大石寺とも呼ばれる。
本堂に安置する本尊大聖不動明王は智証(ちしょう)大師の作とされ、大石良雄の念持仏であったという。またこの立札の右手奥には大石良雄の遺髪塚及び宅址がある。赤穂城明渡しの後、彼はここに隠れてひそかに討ち入りの謀を巡らしたが、事成って後、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進した。その後、一時は荒廃したが、嘉永年間(1848~1854)に京都町奉行浅野長祚(ながとし)らの寄付をうけて再興した。
境内には本堂と明治34年(1901)に建立された木像堂があり、浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)公の位牌をはじめ、四十七士の木造や位牌、大石良雄の遺品等が安置されている。12月14日には義士忌(ぎしき)が行われ、「山科義士まつり」で知られる討ち入り当時を再現する行列が訪れる。』
                           出典:【岩屋寺の駒札】より

04弁財天mid
その境内には、大石が祈願したという「弁財天」が祀られており、討ち入り成就を密かに祈ったのであろうか、その弁財天が今に残る。
この岩屋寺からは山科の町が眼下に」一望することができる。冬枯れの景色は、緑も紅もない淡色の景色なのだが、大石もここから山科の町」を眺めながら、吉良邸への討ち入りを思い巡らしていたのであろうか。

岩屋寺(京都市山科区西野山桜ノ馬場町96)
京都駅から
▼JR琵琶湖線で「山科」下車(所要4分)、京阪バス「大宅」行きで『大石神社前』下車(所要15分)
 「大石神社前」から、徒歩10分