京都守護職を拝命した会津中将・松平容保は、千名余の兵を率いて、文久2年(1862)12月24日に京に上るのだが、守護職の屋敷が出来るまでに宿舎として使ったのが「金戒光明寺」である。 金戒光明寺は、承安5年(1175)に法然上人が比叡山の黒谷を降り、 ...
2017年06月
小御所会議-ほろびの美学・新選組-
それをよしとしない薩長は、12月に京都御所の小御所で、16才の明治天皇以下、皇族の有栖川宮を筆頭に、皇族・上級公家に続き 尾張藩主の徳川慶勝・越前藩主の松平慶永・芸州藩世子の浅野茂勲・前土佐藩主の山内容堂・薩摩藩主の島津茂久らが控え、 その下に公家の ...
二条城西門-ほろびの美学・新選組-
二条城の西門は今そこに橋は無く、そこから城外に出ることは出来ないのだが、 徳川15代将軍・慶喜が二条城で大政奉還をした後、権力を握った薩長と下級公家により、政敵として辞官納地を迫られ、 二条城を出て大坂に向かうおりに、二条城の裏手にあたる西門からひっ ...
二条城-ほろびの美学・新選組-
二条通が堀川通に当たると、目の前に二条城がある。 徳川家康が築城し、徳川最後の将軍・慶喜が大政奉還を上奏した城でもあり、徳川の最初と最後を見ていた城なのである。 二条城は、慶長8年(1603)徳川家康の造営になるもので、将軍上洛のときの居城である ...
所司代屋敷址-ほろびの美学・新選組-
猪熊通を丸太町通まで出て、その通りを西に、大宮通までの少し手前に「所司代屋敷址」の石碑が建つ。 猪熊通の、旧待賢小学校前に立っていた「京都所司代上屋敷跡」の石碑。 そして丸太町通に出て、旧待賢小学校の北側の塀に埋もれるようにして建つのが「所司代屋 ...